V.ウルフ原作、演劇版『オーランドー』

charis2017-10-27

[演劇] ヴァージニア・ウルフ原作、サラ・ルール台本『オーランドー』 新国立 10月27日


(写真右は、エリザベス一世(小日向文世)とオーランドー(田部未華子)、後の黒子たちは物語るコーラス、写真下は、オーランドーとロシアのサーシャ姫(小芝風花)、第一幕は、オーランドーは性転換以前の美少年だが、どこか宝塚っぽい)


ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』はとても面白い小説で、映画版もよかったのだが、演劇になると知って驚いた。原作は、一人の人物が360年の時空を駆け抜ける「伝記小説」であり、しかも実在の史実もかなり混じる「歴史小説」なのだが、性転換はともかくとして、これを「三一致の法則」が支配する演劇化できるのだろうか、と不思議だった。だが、アメリカの劇作家サラ・ルールが演劇化したものがあり、1998年初演以来、計4回も上演されているのだ。それをそのまま日本語に訳して、白井晃が演出。物語を、ギリシア悲劇のコロスようなコーラス(4名)に語らせるのが上手い。オーランドーとサーシャ姫の二人の女優に加えて、4人の男優がさまざまの役とコーラスを兼ねる。だから、たった6名で、「歴史劇」が可能になる。ピアノに、サックスと木琴の生演奏で音楽を付けてミュージカル的にしたのも成功している。ルールによる戯曲化は、科白を、引き締まった、短い、詩的なものにした。それでいて、ずばり本質を語る切れのよい科白になっている。たとえば、/「そなたは多くの人にとって、多くのものになるのです。私にとってそなたは、絹の靴下をはいた麗しい足を持つ少年」(エリザベス女王)。/「私は絶望し、破滅しました。あなたは今も昔も、私にとってはバラ色、真珠、完璧な男にして完璧な女なのです」(ルーマニアの皇女)。/「時間通りに生きる、これは実に難しいことなのです、何らかの芸術に関わると、たちまち時間の秩序は乱れてしまいます」(クロリンダ、原作では誰か実在の著名な作家)。/「オーランドー! 出てきて! もうこの自分には死ぬほどうんざりした。別の私が欲しいんだよ。オーランドー?」(オーランドー)

オーランドーが美少年の第一幕は、エリザベス女王が嫌らしくてエロいお婆さんになっているなど、大いに笑わせるのだが、どこか宝塚っぽくて、上っ調子な感じがする。しかし彼が性転換して女性になった後の第二幕は、ずっと深みのある舞台になった。その理由は、オーランドーが自己の女性性に深く迷い、いわばアイデンティティ・クライシスを経験するからだろう。そもそもウルフの原作自身が、彼女の恋人と言われた貴族の女性ヴィタ・サックヴィルに捧げられており、オーランドーのモデルは実在のこの女性なのだ。原作では、ヴィタの写真が3枚もオーランドーとして載っている。ヴィタはヴァージニア・ウルフの恋人であっただけでなく、ウルフと出会う前から名だたるレズビアンで、28歳のとき、夫と子供二人を捨てて、ヴァイオレット・ケッペル・トレフュシスという4歳年下の女性と一緒にフランスに駆け落ちしている。そしてこのヴァイオレットが、『オーランドー』におけるロシアのサーシャ姫のモデルである。つまり、オーランドーもサーシャ姫も実在のレズビアンの女性がモデルであり、第二幕のオーランドーの男性との恋愛と結婚が非常に屈折したものになった理由もそこにあるだろう。ヴィタはヴァイオレットとの恋では「男性役」であったと言われるから、オーランドーの両性具有性は、実在の人物の複雑なジェンダーを反映している。かくして第二幕は、深みのある舞台になった。また、オーランドーは360年間一貫して詩人であり、最初の大きな「樫の木」の場から、360年後にそこに帰るときにも、詩を作る。ヴィタが作家であったのと対応しているのかもしれない。詩人であり芸術家であるというオーランドーの側面は重要であり、演劇版の第一幕にも、創作者としての詩人オーランドーをもっと前景化すべきだったのではないか。(写真下は顔写真、6人でたくさんの役をやる)