ヴァン・ホーヴェ演出『オセロー』

charis2017-11-04

[演劇]   シェイクスピア『オセロー』 池袋 東京芸術劇場・プレイハウス


(写真右は、ポスター、残りの写真はアムステルダム上演のもの、下は、最後の場面、イアーゴに騙されたことが分かり、締め殺した妻デズデモーナの死体を抱いて泣くオセロ、アムステルダム上演では全裸だったようだ)

実質140分、科白はオランダ語で、原作よりはカットされているが、『オセロ』の本質がよく分る、無駄のない、引き締まった舞台だった。これまで見た上演の中ではもっとも良かったと思う。今までは、『オセロ』は何となく後味が悪い印象があったが、この上演はそうではない。オセロが最後の最後に、デズデモーナを殺した自らの罪を謝罪し、自死するシーンは、非常に堂々としたところがあり、清々しい感じがあって、オセロは高潔な人物なのだと思う。ここは劇の最高のシーンであり、男らしく責任を取って自決するオセロに、崇高なものが感じられ、カタルシスを感じた。ハムレットがホレーシオに「俺のことをちゃんと後世に伝えてくれよな」と言って死ぬのと同じで、オセロはベネチアからの使者に「自分をこのように報告してもらいたい」と言って死んでゆく。ヤン・コットは、この最後のシーンに否定的で、「デズデモーナは死んでいるし、オセロが死んでも何も救われない」と述べるが、少なくともこの演出は、そうではない解釈だと思う。確かに、ブラッドレーのように、オセロをまったく欠点のない人物とするのは行き過ぎで、リーヴィスが言ったように、「自己認識を欠いている人物」なのだと思う。同じように、デズデモーナもやはり自己認識を欠いている人物で、イアーゴだけが、自分が何をしているか分かっている曇りなき自己認識を持っており、本当に完璧な悪人である。それにしても、これほど知的で奥行きの深いイアーゴという人物の造形は凄い。彼が次々に、一瞬のゆるみもなく新手の奸計を編み出し、オセロがそれに完全に嵌まってゆく過程は、本当に怖いものがあり、戦慄を覚える。演出は、オセロとデズデモーナの寝室を、ガラス張りの部屋したのがうまい。ガラスを透視して、部屋の向こうの空間、部屋の中、部屋の手前の空間という三つの空間ができるので、登場人物たちが互いに監視し合う、複雑な視線を実現できる。そして、最後、デズデモーナを絞め殺すベッドシーンのときは、部屋の全体が観客席のところまでせり出すので、殺害シーンは本当に怖い。(写真下↓)

あと、イアーゴは完璧な悪人で、終始冷静であるはずなのだが、何ヵ所か、突然切れて、大声で叫んで取り乱すように語るシーンがあり、これは、彼も深い葛藤を抱えている人間として表現したかったからなのだろうか。よく分らない。『オセロ』はシェイクスピア演劇中もっとも完成度の高い作品で、筋の展開にまったく傷がないと言われるらしいが、本当にそうなのだろうか。私には、デズデモーナという女性が謎めいて感じられる。というのは、疑問に対して答える彼女の科白に、何か不自然なものが感じられるからである。たとえば、オセロが鼻をかもうとしてハンカチを求めたが、彼女に贈ったハンカチをなくしてしまって別のハンケチを渡すシーン(写真↓)。「なくしたのか?」とオセロに問われて、「もってくるのは簡単だけど、いまはいやです」と彼女は答える。ハンカチは、これだけが浮気の決定的物証であり、すでにオセロがハンカチを非常に気にしていることに、彼女は、直前のエミリアの「ご主人は嫉妬深くないのですか?」という科白や、オセロの「お前の手は湿っているな」や、ハンカチについての奇妙な説明をすることから、気が付いていなければならない。しかし、ハンカチの重大さにたくさんの示唆が与えられているのに、彼女はそれに気が付かず、キャシオーを復職させたいばかりに、その駆け引きのために、「持ってくるのは簡単だけど、いまはいやです」と強気な嘘をつく。これは、私にはありえないと感じられた。ここで正直に答えておけば、事態の展開はまったく違ったわけだから。デズデモーナは父親を騙してオセロと秘密結婚した女性であるし、やはり最後まで謎である。東京上演のデズデモーナはアムステルダムとは別の俳優のようだが、ガリガリに痩せているのが気になった。最後の絞め殺されるベッドシーン、二人とも東京上演では下着一枚は付けているが、オセロがしっかりした男らしい肉体であるのに対して、デズデモーナは女性らしいふっくらしたところがまるでなくガリガリに痩せているので、肉体そのものが痛々しい。これは、たまたま痩せた俳優だったのか、それとも演出の意図なのか、分からない。とはいえ、全体として、『オセロ』はこんなに怖い作品だったのかと感じる名演だったと思う。自己認識をもつのが悪人、もたないのが善人。これが『オセロ』の真の主題といえようか。そして、デズデモーナを殺してしまったあと、初めて自分が何であるのか、自己認識を得るが、すでに遅すぎる。これが悲劇。