NTL、イプセン『ヘッダ・ガーブレル』

charis2017-12-01

[演劇] イプセン『ヘッダ・ガーブレル』NTライブ TOHOシネマズ日本橋 12月1日


(写真右は、ヘッダ(ルース・ウィルソン)を誘惑するブラック判事(レイフ・スポール)、ブラック判事にはきわめてセクシーな男優を使った、下は舞台写真、ぶち切れて花束を部屋中にぶちまけるヘッダ、新婚生活の居間を倉庫のような空間にしたのが成功している、その下は、左からブラック、レェーヴボルク、ヘッダ、テスマン、美しい彼女を前に男たちは狂ってしまう)


ロンドンのナショナル・シアター公演。演出は、最近、池袋で上演された『オセロ』と同じオランダのイヴォ・ヴァン・ホーヴェ。なるほど『ヘッダ・ガーブレル』とはこういう作品だったのか、と納得させる名演だ。科白は原作よりはシンプルになっている。とにかくヘッダを演じるルース・ウィルソンが素晴らしい。美しい「野鳥のような女」! ヘッダのモデルになった18歳の実在の若い少女エミーリエ・バルダッハについて、イプセンはこう語った。「バルダッハは、ありきたりの結婚には興味がなく、既婚男性を妻の手から奪い取るのが唯一の夢で、何とかイプセンを自分の餌食にしようとして羽ばたく姿が、イプセンには野鳥のように見えた。<彼女は私を捕えそこねた、でも私は彼女を捕えたよ ― 私の戯曲に>」(原千代海『イプセン 生涯と作品』)。そう、イプセンは、普通には捕まえられない「野鳥の女」を捕まえ、そして自分の戯曲の中で締め殺したのだ。ヘッダは、どうしようもなく凡庸で善良な学者テスマンと結婚したことを、激しく悔やんでいる(写真下↓)。だが、彼女はそもそも絶対に結婚には向かない女である。

哲学者のマッキンタイアは、キルケゴール『あれか、これか』が初めて明示した「美的生き方/倫理的生き方」という人生の対立する範疇について、「美的生き方」を志向する人は、「人生に目的を持たない無頼漢」で、ディドロ『ラモーの甥』が初めて人物造形したと述べた。ヘッダはまさに「人生に目的を持たない無頼漢」で、彼女の唯一の願いは、「人生に一度だけ、誰かの人生の運命を左右する力を持ちたい」という、ただそれだけ。『ヘッダ・ガーブレル』の真の主題は、「結婚したくない人間」たちの栄光と悲惨だと思う。ブラック判事が、彼の家で催したパーティーの主旨は「独身者の集い」である。ヘッダ、ブラック、そして天才作家レェーヴボルクの三人は明らかに「人生に目的を持たない無頼漢」だが、彼らは何と美しいことだろう。レェーヴボルグに「美しく死んでね!」とピストルを渡すヘッダ。彼らは死さえも美しくあるべきだと考える。たしかに、結婚して子供を生み育て暖かい家庭を作るのが人の道に適った「倫理的生き方」なのだろうが、それを象徴するテスマンや彼のユリア伯母さんは、本当に凡庸で退屈でつまらない人間である。だが、そうした人生を拒否するヘッダやブラックやレェーヴボルクが幸福に人生を全うすることもできない。彼らは小さなドン・ファンたちであり、地獄に落ちることになる。写真下は、レェーヴボルクを撃とうとするヘッダと、戯れてヘッダにピストルを向けるブラック。


「人生に目的を持たない無頼漢」たちは、中途半端な妥協を嫌い、「ゼロか、すべてか」でなければ満足せず、「あれか、これか」しか選ぶことができない。ちょっとずつ「あれも、これも」を併せ持つことができないのだ。この舞台は、時空を移して、現代の若者たちの愛と葛藤の物語にしたのがよかった。「野鳥のような女」ヘッダは、イプセンが意識して造形したファム・ファタールだ。彼女の筆舌に尽くしがたい美しさは、『突然炎のごとく』のカトリーヌを思わせる。写真下は、終幕、ブラック(すぐ後ろの椅子)に支配されることを拒んで自殺する直前のヘッダ。ブラックにトマトジュースをかけられて、すでに「血まみれ」。

短いけれど、以下に動画があります。
https://www.youtube.com/watch?v=UjrgIxEJ6tU