M.ヘックマンス『山歩き』

charis2017-12-14

[演劇] M.ヘックマンス作『山歩き』  赤坂エノキスタジオ 12月14日


(写真右はポスター、他の写真は、長田紫乃氏のブログより、下は、娘のパソコンにあった動画を観てショックを受ける親たち、子どもたちの王様ゲームで、息子がズボンを脱がされており、娘たちもキスや抱き合ったりしている)

ヘックマンスは現代ドイツの劇作家、本作は2016年ドイツ初演で、長田紫乃訳、小山ゆうな演出により、日本でも上演。子どもを巡って親たちが喧嘩をするヤスミナ・レザ『殺戮の神』(私は、2011年にシス・カンパニー『大人は、かく戦えり』で観た)と似ている。こちらはドイツの話だが、内容的にはこちらの方が面白い。子どもたちの「性のめざめ」に戸惑う親たちの喜劇的な右往左往から、むしろ親たちの方が「抑圧された性」を生きてきた世代であることが明らかになる。8月に観た、やはり小山ゆうな訳・演出の『チック』では、ドイツの学校の権威主義に驚かされ、ヴェデキント『春のめざめ』の頃と変わらないじゃないかと感じたのだが、この『山歩き』では、子どもではなく大人世代の「性の抑圧」が感じられる。そして、主人公の一人ハネから、ドイツにおける「性の抑圧」はキリスト教の影響が強いことも感じられる。さすがはフロイトを生んだ国、この劇でも、二人の親がセラピストで精神分析にかかわっている。(写真下は↓、左が母親のハネ[カトリック教徒]、中央がその夫[ヘタレ人文系インテリ]、右は、やはり親である怪しいセラピスト、「バイオエネルギー治療」というのもいよいよ怪しい)

この劇の一番面白いところは、子どもたちの「性のめざめ」に大人たちが過剰反応すること自体が、大人たち自身の「性の抑圧」を示していることである。ハネの夫の高校の同級生であった男の友人[今はビジネスマン]は、親の一人として、ハネが召集したこの「親たちの会議」に呼ばれたのだが、今は夫ととても仲が悪い彼は、かつて高校時代に夫と同性愛的な親友だったのであり、今、酔ってでれでれと抱き合う二人を見るハネは衝撃を受ける。ハネの娘のマリーも、「山歩き」に行ってレズビアン的な愛に目覚めてしまったようで(写真下↓)、ハネは再び打ちのめされる。

この劇の面白い点はもう一つあり、性や家族が社会的文脈で捉えられていることである。性に「お堅い」カトリック教徒のハネは、真面目で勉強のできる「よい家の娘」にありがちなタイプだし、ヘタレインテリの夫はオタクっぽい学者?、その友人のビジネスマンは新自由主義の競争で勝ち馬のように見せかけているが実は負け馬で強いストレスを生きている。彼ら自身の「抑圧された性」はそれぞれの社会的コンテクストの中に置かれている。驚いたことに、最後に大逆転があり、子どもたちの王様ゲームの秘密パーティの動画は、実は、この劇には登場しないアマル君というイスラム教徒の男の子が仕組んだことが分かる。つまり、大人たちをからかうために動画を仕組んだのだ。最後に、部屋に駆け戻ってきた(ビジネスマンの)パートナーの女性[セラピスト]が、壁にドイツ語で「悪魔はズボンをはいている[という意味?])」と書くのだが、これは、動画でアマル君がズボンをはいていることを言っているのだろう。そして、外ではイスラム排斥のデモ隊の声が響いて、終幕。しかし、これは演劇の作り方としては、ちょっと分かりにくい。アマル君とは、いかなる存在なのか? イスラム教はキリスト教以上に性を抑圧しているのか? すべてをアマル君が仕組んだというのも、実はこのパートナーの女性の妄想ではないのか? それとも意図的に劇そのものを混乱で終わらせたのか? いずれにしても、とても面白かった。原題の「Mein Herz ist rein(私の心はきれい)」はとても意味深なのだが、日本語版のタイトルはどうなのだろう。難しい課題だ。もう一つ感じたのは、互いに友人である子どもたちの親たちも高校同級生だというのは、現代ではやや不自然ではないかということ。日本では、地方の高校の優秀な卒業生は大都市の大学に進学して、故郷には戻らない。『チック』といい本作といい、最新のドイツ演劇が優れた演出のもとで観られるのは本当に嬉しい。


森岡実穂氏のFBに、この劇の素晴らしい解説があるので、以下に貼らせていただきます。
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森岡 実穂さんがI.N.S.N.企画さんの写真をシェアしました。
4時間前 ·

小山ゆうな演出、マルティン・ヘックマンス『山歩き ♡がきれいなの』@赤坂エノキザカスタジオ(2017年12月15日)
 この上演に役者としても出演している長田紫乃の企画(増岡裕子と共同主宰の「I.N.S.N.企画」)・翻訳で、2016年9月にドレスデン州立劇場で初演されたばかりの Mein Hert ist rein を観た。ここ数か月、いや今年一番笑ったブラックコメディと言っていいかも。子どもたちの性的動画投稿への対処を親たちが話し合う中、彼ら自身の性や人生観、隠している不安、見ないようにしてきた欲望などがぼろぼろ明らかになっていく。作者のマルティン・ヘックマンスは1971年生まれということで、登場する親たちはおそらく彼の親世代がモデルなのだろうと推察するが、60年代後半~70年代に青春を送った人たちを知っていたら笑い倍増!でもどまんなか世代ならむしろ恥ずかしくて見てられないかもというくらいの強烈さ。ぜひ再演もしてほしい。ただ、クライマックスに向けての構成が本当に見事なだけに、最後の部分にだけは若干の疑問が残るのだが。
 いい脚本だったけれどきっと活字出版は難しいのだろうから、あとで内容を振り返ることができるように覚えている限りのことをまとめておく。いろいろ記憶違いもあるかと思うがとりあえず。
【インターネット時代の子どもの性】
ミヒャエル・ブロンベルク(霜山多加志)は国語の教師。妻ハネ(氏家恵)が15歳の娘マリー(井上花菜)のパソコンで見つけた、彼女の友達のクララ、カール、アマルの三人が「王様ゲーム」的なセクシュアルな絡みをみせるネット動画の件で、登場する少年少女の親たちを招き、今後の対応について話し合おうとする。「一度こんな動画を公開したら、就職のときにも見られてしまう」ことまで心配しなくてはいけない。これはいかにも現代的な問題設定だ。
少年カール(14歳)の父親はヴォルフガング・ブラウマイスター(今井勝法)。イベント会社経営者。彼はミヒャエルの学校友達だったが卒業後は疎遠になっていた。カールの母親だった女性とは別れており、現在は随分年下のパートナー、シュテフィ(長田紫乃)と息子を育てている。
もうひとりの少年アマル(15歳?)はパキスタン系。この日両親は「お祝い事があって」この場に来られない。
少女クララ(留年しているので16歳)の父親はルドガー・キュスター(モロ師岡)。バイオ系セラピスト。妻スザンネはミヒャエル、ヴォルフガングの同級生だった。彼女はいまはバンド活動をしていて、今日も練習でこのミーティングに遅刻してくることになっている。
 この同級生四人は、「山歩きクラブ」と称して、今日は一緒に出掛けている。マリーが出かけたところでハネがこの動画を発見し、ほかの親たちに声をかけたのだ。
 最初はそこそこ気楽に構えていた親たちだが、ハネが紹介した「マリーが撮影した三人の動画」をPCを囲んでのぞき込むと、全員がショックを隠せない。実際の画像はわれわれの目に触れることはないのだが、PCに寄り集まった5人の顔が青白い照り返して染まるとき、この動画が彼らに与える不安はなによりの視覚的インパクトをもって伝わってくる(シェアした写真の場面。この写真から入れば他の場面の写真も見られる)。
 しかもキュスターが、「別の角度」の動画、つまりマリーも映っている動画を持参していて、これも全員で観ることになる。当然ながら誰もが自分の子どもは被害者である、という立場で発言を始め、ののしりあいとなる。そこからようやく、子どもたちに対してどう対処していくかについて意見交換をすることになる。
【大人たち自身の自己の問い直し】
 このプロセスは、必然的に、大人たちのセックス観や人生観、世界観や現在の悩みを表出させていく機会となる。子どもの性や精神の成長の問題についても、セラピストとしての面目躍如、ノリノリで語るキュスター。彼はヒッピーカルチャーの系譜に連なる人で、性の解放、人間の解放を芝居がかった調子で語る(ホワイトボードを使うトークがヒートアップしていく姿はいかにもあやしいセミナー講師。いちいち椅子という説教台に登って、天に両腕をひらいて恍惚と語る大演説には爆笑せずにはいられない!)。彼の勢いにひっぱられて、ふらふらと夫婦仲の問題を語りだすシュテフィ。彼女は若くしていきなり任せられた息子の養育に重い責任を感じていて、夫も留守がちな中必死で悩んでいる。「自分たちの世代も子どものときにはネットがなかっただけで、同じようなことをしていた。大した問題じゃない」と、イラつきを隠さないその夫ヴォルフガング。彼は、学生の頃は同級生のミヒャエルやスザンネと70年代を謳歌していたようだが、卒業後はすべて忘れて彼はやり手ビジネスマンに、ミヒャエルは堅実な教師になっていた訳で、二人はキュスターとは逆方向の生き方を選んだということになる。「倫理が必要なの」と、教育と道徳の必要を叫ぶハネは、カトリック教徒とはいえ普段はなんちゃって信者なのに、このメンバーで話しあううちに「キリスト教徒」代表として発言が先鋭化していく。
 これにブーストをかけるのがアルコールで、最初は「酔っぱらってはいけない」とアルコール提供に反対していたハネさえ、話がしんどくなってくるとぐいぐいラッパ飲みし始める。そしてどんどん綻びを拡げる失言の数々。夫が席を外したときに、シュテフィが彼の現在のビジネス上の苦境を分かってもらおうと話し始めるのだが、無意識に「ヴォルちゃん」と家での愛称を口走ってしまう。「大人」としての社会的体裁にぽろりと穴があいて、家庭でのナマな存在が垣間見える、この脚本はこういう瞬間をつくるのが本当に上手い。その場では皆突っ込まないながら、後の追い込みあいでは無慈悲にもこの名を本人につきつけるミヒャエルもぐでんぐでんである。
 テンションが上がるうちに、彼らを照らす照明にもブルーやピンクの色がつき、視覚的にも空気が濃密になっていく。丁寧に酔っ払い度を上げていく達者な役者たち、そして彼らの演技から全体像を有規的に構成していく演出の小山の力で、それぞれの封印されてきた本音が「大人」の仮面を内から食い破って野に放たれていく。
「同級生」――性の解放の時代を振り返る、もしくは「歴史は繰り返す」】
 「インターネットがなかっただけで、俺たちも子どもの頃は同じようなことをしていた。」ヴォルフガングのその言葉の重みが分かるのは、彼がミヒャエルの昔の詩を暗唱しはじめた時。高校の頃の友達の詩を暗唱できるってどれだけ親密だったのか……?と思う間もなく、それが彼ら二人とスザンネ三人の−−子どもたちと同じく「同級生」同士での−−3Pセックスを歌った詩だということが暴露される。しかも、ひとしきりその暴露に激怒したあと、茫然と当時のバイブルを暗唱しはじめるミヒャエルに、ヴォルフガングが感極まって抱きつき、「ブレーキくん」という当時のあだ名で彼を呼び「もとの君にもどってくれたんだね!」と叫ぶ。何十年も封印されてきた、彼ら二人の親密な結びつきが一気に放たれる瞬間には圧倒される。そしてここまでばらまかれた伏線の見事なことに驚く(訪問最初のハグを求めるWに、Mが「レディーファースト」とかわすのすらここに繋がるのかと!)。
 逆に、これまで意識の解放と話し合いを叫んできたキュスターは、妻の知られざる過去に普通にショックを受け、絶妙のタイミングでのんいきに電話をかけてきたスザンネに素で動揺して語りかける姿をさらす。「リベラルな、互いに誠実な夫婦」として、互いを裏切らずにやってきた自負もあったハネも、自分が片鱗も知らなかった夫の姿に愕然とする。全員がこれまで積み上げてきた「自分」と信じてきたものを突き崩される。この全員の感情の乱高下のさまは本当に素晴らしい。
【実際に子ども世代の現実と向き合う瞬間】
 その混沌のただ中に、娘マリーが「山歩き」から帰宅。「頂上をきわめる興奮」について語る。もちろんすべては性的エクスタシーの物語として読み替えられるセリフで、大人たちは茫然とする。だがまだ大人としての抑圧を受けていない彼女が生のまま語っていく性の魅力と不安は大人たちにはあまりにまばゆく輝いており(彼女から発しているかのような光に、居並ぶ親たちが何も言えず照らされている様は、先刻までのけばけばしい色の光の中の混沌となかなかの好対照)、親たちならずとも彼女たちの行く末に幸あれと祈ってしまう。
 子どもの性、親子の世代間ギャップ、インターネットと個人情報、そして「性の解放」時代に青春を送った人々の現在の現実など、さまざまな現代的なテーマを扱いつつ、「いつの世も子どもたち、『同級生』たちは同じ」という性の問題の普遍性も、当事者たちの過去を織り込んだ立体的な構成で示した素晴しい脚本であった。長田紫乃の翻訳には、自分も役者なだけあって、高速のセリフ応酬にも負けないなめらかさがあった。今後もいろいろな作品の紹介を期待したい。
【問題点:「アマル君のせい」という話はしていたか?】
 今回ちょっとバランスが悪いと感じたのが最後の場面である。全員が解散した後に、突然頭に巻いたハチマキにドイツ国旗をたてたシュテフィが乱入し、ホワイトボードに Der Teufel trägt Hosenanzug、そして「排斥」とかきなぐり、「全部アマルが悪いのよ!」というような告発をして(←ちょっとセリフの記憶があいまい)嵐のように去っていく。その背後にはデモか暴動のような激しい声が聞こえている。
 正直、これはあまりに唐突だった。上演のごく初めの段階で、ハネがホワイトボードに子どもたちの名前と似顔絵を描きだしたときに、「アマル」という名前の下に書かれた少年の顔が有色に塗られていて、「これは移民・難民問題、人種差別も語られるのかな」と身構えたが、実際にはほとんどここまでその話題に誰かが触れることもなかったからだ。敢えて言えば、シュテフィが動画を見ながら繰り返していた「あの子はズボンをはいてる」という言葉が、ホワイトボードにつながるのだろうが、そのシュテフィにしても、途中ではほとんどアマルの事、外国人のことには言及していなかったように思う。
小山ゆうなのブログより引用)
「Der Teufel trägt Hosenanzug(悪魔はズボンをはいている)
これは、ドレスデンを中心として多く行われているドイツの移民排斥デモのプラカードの文言だそうです(長田さんに聞きました)。メルケル首相はズボンを履いていますが、この悪魔は暗にメルケル首相をさすそうです。
メルケル首相とアマルくんをかけているわけですが、私はラストは完全にシュテフィの妄想で、理解不能な事、解決不能な事が出ていた時に、それでも無理矢理誰かのせいにして向き合おうとしない私達という皮肉なのだととらえています。」
https://ameblo.jp/roomyuna/entry-12336514515.html
 終演後に長田氏と話す機会があったのでこの最後の場面について聞いてみたところ、この最後のセリフはもっと中盤にあったものを今回最後にもってきたらしい。去年ドレスデンで初演なら、それはこの話題が出るのは当然すぎるのだが、それなら本来のプロットの中、幾多の会話の間でふくらませるべき話題なのではないだろうか?実際に元テクストのどこに、どのくらいこの話題が本来入っていたのかは逆に気になった。今回観た上演が「70年代以来の青春の抑圧と向き合う親世代」の物語としてあまりに構成がよいだけに。
 繰り返すが、今回の上演だけを観るならば、シュテフィの上記の発言と、ごく初めの段階の「子どものうち誰のせいでこんなことになったのか」を話す中で言及されただけで、その後は「パキスタン出身の親を持つアマル君」の話題や「移民(排斥)問題」はほとんど登場人物の誰の意識にも重要な課題として登っていなかったはず(この話をするのには本当はテキストを確認したいところだが……)。強いて言えば、ムスリムを悪く言う宗教がらみの話題として出ていたか?他のテーマについては必ず綿密に伏線が張られた必然性のあるセリフで構成されているだけに。これだけが伏線にもとづいた発展、というプロセスを踏みきれていないのはやはり不自然ではないか。
 だから、プログラムノートで、演出家が「アマル君のせい」にする話題について強調しすぎるのはちょっとミスリードなのではないだろうか。この話はむしろ、自分自身のハートのきれい reinな根源に向き合おうという物語だったのだし。「アマル君のせい」というテーマについては、また別の、それを普通に正面から扱っている作品で観たい。

……という訳で、最後の部分とプログラムノートには多少ひっかかりを感じたのだが、全体としては本当に面白い、純粋に笑えると同時に多くのことを考えさせてくれる作品だった。もっと多くの人に見てもらえるように、再演の機会が得られることを望む。