T.アデス『皆殺しの天使』

charis2018-02-01

[オペラ] METライブヴューイング T・アデス『皆殺しの天使』 Movixさいたま1月31日


(写真右は、夜会の主人エドムンド[左、ジョゼフ・カイザー]と、オペラ歌手レティシア[オードリー・ルーナ]、レティシアはこの劇の中心人物で、ルーナのソプラノが素晴らしかった、こんな高音程の無調の歌は(「夜の女王のアリア」よりも)難しいだろう、写真下は舞台から、夜会の部屋から出られなくなったブルジョアたち、家具や楽器を壊して火を焚き、庭に飼われていた羊を殺して食べる)


現代の作曲家トーマス・アデスが、ブニュエルの映画『皆殺しの天使』1962をオペラ化したもので、初演は2016年7月だから、ごく最近だ。このMET上演は2017年11月。内容や科白は、最後を除いて、ほとんど映画と同じ。ただし音楽はとても面白い。無調の歌が飛びかうのだが、重厚な電子楽器も演奏されて、聞こえる音がユニーク。物語の筋は、豪邸のパーティに集まったブルジョアたちが、物理的にではなく、何らかの精神的な理由で、部屋から出られなくなり、閉じ込められてしまう。飲食物もなくなり、紳士や淑女たちが激しい葛藤の中で憎み合う。自殺者もでる。しかしある時、一人の女性が、皆が立っている位置が最初の晩と同じことに気づき、そのとき各人が語った言葉を、全員が想起しつつ語り直したら、不思議なことに、魔法が解けたように、皆が邸の外に出られた。このオペラ版では、第一幕は特にどうということとはないが、第二幕では、閉鎖が絶望的になり、二人死んだ後に、一転して邸の外に出られるようになる瞬間は、とても美しくて感動的だ(写真下↓)。


たしかに全体は奇妙な物語だ。精神分析において、転移や逆転移を経ながら抑圧が解け、自我が解放される過程とよく似ている。部屋から出られなくなった紳士淑女たちは、同じ行動、同じ科白を繰り返し、時間が線的に進まずに循環するように感じられる。そして、外に出られなくなるまさにその瞬間は、各人のさまざまな語りが交錯する。「私は行きます」と誰かが言い、別の誰かが「でも、私は残って〜〜をします」と言い、そうなると最初の人も、「それじゃ、行くのをやめて戻ろう」と身体の向きを変える。物理的に外出が妨害されるのではなく、意識のさまざまなレベルが対話しつつ、重層的決定として、外出しないという行動が決まる。つまり、彼らは対話しつつ自発的に閉じ込められる。


 オペラ化することによって、映画よりも感情を深く描くことができる。ただ、オペラ化されて、映画にあった政治性が希薄になった。ブニュエルの映画では、最後、部屋から解放されたブルジョアたちが全員、感謝の教会ミサに参加するのだが、神父ともども再び教会から出られなくなり、教会の外では、警官がデモの民衆を弾圧している。つまり原作は政治性もある暗喩なのだが、これはオペラ版にはない。ボーマルシェの演劇版『フィガロの結婚』がモーツァルト版オペラによって、「少しカドが取れた」のと似ているかもしれない。歌手は、ソプラノ陣がよかったが、苦労が多かったのではないか。インタヴューで、サリー・マシューズ(シルヴィア役)は「楽譜を見て、とても歌えないと思った」と言い、またアデスは「普通のオペラより音域を広げた」と言ったが、凄い話だ。このオペラではCGもいい、庭で飼われている羊と熊の映像。(写真下↓)


短いですが、オペラと映画の動画。
https://www.youtube.com/watch?v=gynD61VjBV8
https://www.youtube.com/watch?v=K6UNAZmNn1s
ザルツブルク初演のときの映像、高音域の歌が聴けます
https://www.youtube.com/watch?v=uEyy1wsl1eY