細川俊夫/サシャ・ヴァルツ、オペラ『松風』

charis2018-02-18

[オペラ] 細川俊夫/サシャ・ヴァルツ『松風』 新国立劇場大H  2.18


(写真右は舞台、左側に座り込んでいるのが、地謡に相当する8人の合唱隊、中央は、踊るダンサーたち(サシャ・ヴァルツ&ゲスツ)、この二つのグループが、シテやワキに相当する計4人の歌手の他に舞台に登場する、写真下は、蜘蛛の糸のようなものが張り巡らされた空間の中に囚われているヒロインの姉妹、松風と村雨、そして下はダンサーたち、愛の妄執に囚われて身動きができず、「わたしたち、ただ腐ってゆくだけ」と歌う)

この一年と少しの間に、デフォート『眠りの美女』、サーリアホ『遥かなる愛』、長田原『Four Nights of Dream(漱石夢十夜』より)』、アデス『皆殺しの天使』といった、ごく最近に創られた現代オペラを幾つか観たが、今回の細川俊夫の『松風』もまた素晴らしい作品だった。『オペラ』という様式はもう過去のものになったという説もあるが、そんなことはない。この『松風』は、能にコンテンポラリー・ダンスを付け加えて、西洋音楽のオペラという形式で表現したものだが、およそ芸術というものが持つべき根本要素を完璧に備えていることが、この作品を傑作たらしめている。細川が初演のプロブラムノートに書いているように、能の芸術性は、最小限の表現装置によって「感情の浄化」を深く遂行するところにある。我々の人生には、喜びもあるが、苦しみや悲しみも多く、とりわけ悲しみの感情は、それを浄化しないと生きることにさしつかえる。我々は通常「泣く」ことによって、深い悲しみから解放されるが、芸術は、その解放を美的に行うところにその主旨がある。アリストテレスギリシア悲劇の本質は「魂のカタルシス(浄化)」にあると語ったが、これは悲劇に限らずおよそ芸術というものの本性である。芸術は、観賞する我々の内部にさまざまな感情を生起させ、その心の動きを観賞者が自ら楽しむことによって感情を浄化させる。我々の「眼は見ることを喜び、耳は聴くことを喜ぶ」(アリストテレス)だけでなく、我々自身の心がさまざまに動かされるその動きを、たんに受動的に受け取るだけでなく、それに半分は能動的に参与することによって、心の動き自体を楽しむこと、これが感情の浄化を美的に行うことの本質である(カントの言う「想像力の自由な遊び=美」)。能の『松風』をオペラに昇華させることによって、細川はこれを完璧に行っている。3年間愛し合った在原行平の死によって、その愛の喪失から立ち直れずに苦しむ二人の姉妹、松風と村雨は、蜘蛛の糸に絡め取られるように、愛の妄執の中で「魂が腐っていく」のだが、その次には、蜘蛛の巣の空間は透明な家の場に転換し、そこで行われるダンサーたちの激しい踊りに二人も加わり、狂おしい愛の情念を出し切ることによって、情念は浄化される。(写真下↓、人形のように抱かれたり下ろされたりする激しいダンスはとても美しい)



能は、シテやワキの科白、地謡や楽器の音楽、舞い、衣装など、さまざまな要素がうまくバランスを取っているが、これにコンテンポラリー・ダンスという身体の運動表現が加わることによって、情念の転換と浄化を、いっそう深く行うことができるのがオペラ『松風』の強みである。ダンスと音楽との関係で言えば、ヴェルディ『椿姫』はじめ古典オペラの舞踏会シーンはどれも、美しい旋律と優美な身体運動によって、我々に快と喜びの感情を生起する。しかし現代オペラにおいては、このような調性の「美しい旋律」を懐メロのように用いることはできないし、もし用いれば「キッチュ」になってしまう。細川の場合、非常に繊細で線的な音楽によって(能の笛のような)、聴覚効果がダンスという視覚効果と融合する。悲しみの感情の浄化という点では、ある種の暴力性も持つことのできる不協和音的な音楽は、意外にも適合的なのではないかと感じた。心の動きを自ら楽しむ快に美の本質があるのだから、それは調性的な旋律には限られないと思われる。能における鼓や笛の音楽は、明らかにそのような美的働きをしている。(写真下は、姉妹と舞台)



下記に動画がありました。
https://www.facebook.com/events/158551961461755/