ムワワド『岸 リトラル』

charis2018-03-01

[演劇] ワジディ・ムワワド『岸 リトラル』 上村聡史演出 シアター・トラム 2月28日


(写真右は、父の遺体を背負い、父の故国へ埋葬場所を求めて遍歴する息子のウィルフリード[亀田佳明]、写真下は父の故国で彼が会った若者たち、すべて子供のときに内戦で父や母を失っている、中央の赤い服の娘ジョゼフィーヌ[栗田桃子]は大きな電話帳を何冊も抱えている、家族も知人も死んでしまい、墓もなく、電話帳にしか故人の「名前」が残されていないから)

昨年観た同じムワワドの『炎 アンサンディ』も凄かったが、『岸』は、それより前の、彼が28歳の時に書かれたもので、スケールの大きな深みのある大作で(3時間半)、本当に圧倒された。レバノン内戦を逃れて子供のときにフランスに逃れたムワワド自身の体験が元になっているが、本作の主題は、「死者は、残された生者とどのような関係を持ちうるのか」を問う、きわめて普遍性の高いテーマである。父の遺体を埋葬しようにも、どの家も内戦で家族を失って同じような状態にあり、墓地は満杯で、もはや埋める場所がない。死者を慰霊しようにも、慰霊できないのだ。これはたしかに極限状況であるが、しかしレバノン内戦、そして現在のシリア内戦で、現に起きていることだ。そして、国家間の戦争ではなく、内戦であることが重要である。つまり、隣村の良く知った男たちに村が襲われて虐殺されたので、父や母を殺された憎しみもそれだけ大きい。あるいは混乱の中、暗い洞穴で間違って父親を撃ち殺してしまった若者もいて、彼の絶望は深い。現代の日本は、たしかに内戦は起きていないが、社会の分断と敵対が次第に激しくなっていることは、アメリカや西欧諸国と同じであり、敵対と憎しみ合いの中で人が殺され死んでゆくという絶望的状況は、決して架空のものではない。現代日本にも、生活保護をはずされ、孤独の中で餓死や病死する中高年者が少なからずいる。通常の意味で「天寿をまっとうした」死ではない彼らは、どのように「慰霊」されているのだろうか。内戦で親たちを殺された子どもたちが、自らの親をどのように弔えるのかという難問は、内戦という極限状況だからこそ鋭く見えてくる、死者と生者の関係という普遍的問題である。フロイトは、親しい者の死後に残された生者たちの「喪」の必然性を精神分析的に解明したが、この舞台で、死んだはずの父親がウィルフリードや他の若者の前にたえず妄想として現れ、子どもたちに文句を付けたり甘えたりするのは、死者が自らの死に納得していない、死を受け入れられないということであり、生者はその死に「責任」を問われているのだ。「慰霊」とはそういうことだが、子どもの時に親を殺された子どもたちが、その死にどう「責任」を取れるというのだろう。(写真下は、憎しみ合いの中で苦しむ子どもたち。そしてウィルフリードを産んだ直後に死んだ母。)



この作品のもっとも素晴らしいところは、死者が、残された生者たちを、「さあ、生きよ!」と、背中を押して、生へと送り出すところである。真の「慰霊」とは、死者と生者がこのような関係をもつ「応答」ではないだろうか。憎しみの中で死んだ死者によって生へと送り返された子どもたちは、憎しみを捨てて愛に生きようとするだろう。これが『岸』の託すメッセージである。この舞台にはクライマックスが二つある。一つは幕切れのところ、海へ埋葬されることを最初は嫌がっていた父親が、ジョセフィーヌの電話帳を「重し」にして海底に沈み、海藻に抱かれるという、海中葬を受け容れて、子どもたちと手を繋ぎ輪になって、歌いながら、踊りながら海へ入っていくシーン(『岸 リトラル(littoral)』とは、フランス語で「海岸」の意)。父は、ウィルフリードだけの父だけではなく、皆の父となって弔われるのだ。もう一つは、ジョゼフィーヌに「今、ここで私を抱いて!」と懇願され、「いやだよ、ここじゃ恥ずかしくって」と言っていたウィルフリードが、逡巡ののちそれを受け容れて、父の死体の前で彼女と行うセックスである。何という崇高なシーンだろう。私は涙が溢れた。憎しみの中で死んだ死者によって生へと送り出された若者は愛に生きるのだ。あらためて考えてみると、このシーンと対照するためにこそ、この劇ではウィルフリードの滑稽な「射精自慢」が何度も出てきて笑わせるのだ。幕が開いた冒頭、まだカナダにいるウィルフリードは、「いい女と寝たな、女神だったぞ、アテナだったかヘレネだったか」と言って、楽しそうに射精場面を再現してみせる。「アフロディーテ(ビーナス)と寝ちゃったぜ」ならともかく、処女神アテナとは何さまだよお前、女神アテナさまは哲学の神だぞ、お前なんかと寝るはずねーだろ、しょっぱなから笑わせんなよ・・・と、私は笑ってしまった(笑)。この舞台には、プリアモスオデュッセウス、そしてアーサー王の騎士ギロムランなど神話的人物がたくさんでてくるが、死者との「応答責任」という主題からして、これはたんなる妄想ではないわけだ(写真下が、プリアモスとギロムラン)。


ジョゼフィーヌが内戦で死んだ者の名前を必死にノートに書き留め、電話帳を大切に抱え持っていることは、我々一人一人に「名前」があることの重大な意味をあらためて教えてくれる。肉親、知人も死に、墓もないから、電話帳くらいしか死者の名前は残っていない。もし名前が失われれば、慰霊という「応答責任」はできない。眼前にいる生者ならば、「あなた」と二人称で呼びかけることができるが、死者にはその名前で呼びかけることしかできない。我々一人一人が名前を持っているのは、死者に対して、あるいは死者となったときに、呼びかける=呼びかけられるという「応答」のためなのかもしれない。また、親を失った若者たちは、そのことを逡巡のすえ苦しみながら物語るのだが、全員がその「物語」を互いの前で語り終えて初めて、皆の協力が始まる。人間は言語によって生きる生き物だから、この「物語」は不可欠であり、フロイトの「喪」がそうであるように、それによって初めて自我は抑圧から解放される。「歌う女」シモーヌ(中嶋朋子)も素晴らしい。彼女は禁を犯して歌うだけではなく、たくさんの空瓶をメッセージとして川に流す。アドルノが、誰も聴いてくれない現代音楽の不幸を「投瓶通信」に喩えたことを思い出す。そして、ときどきカメラ隊が現れて撮影に入り、すべてが映画の撮影なのだと示唆することによって、現実と虚構、そして生と死を自由に往来する。『岸』は、演劇的な技巧にも優れ、生者と死者の関係を深く問いかける稀有の作品だ。