ストリンドベリ『父』

charis2018-03-11

[演劇] ストリンドベリ『父』 雷ストレンジャーズ  新宿、サンモールスタジオ 3月11日


(写真右はポスター、下は、妻ラウラを演じる辻しのぶと、大尉である夫を演じる松村武)

演出家小山ゆうなが主宰する「雷ストレンジャーズ」は、主にヨーロッパ近代古典演劇を上演するが、本当に素晴らしい劇団だ。チェホフ、イプセンストリンドベリなどは、日本人が日本語で演じてもなかなかうまくいかない。それは、演劇の本質に関わる事柄で、作品と観客の間で一定のコンテクストが共有されていないと、観客の想像力が働かず、舞台の人物に感情移入できないので、作品が表現しようとするものが伝わらないからだ。何世紀も後に他国で上演されるくらいの古典だから、主題はきわめて普遍的なのだが、このコンテクストの差異がどうしても残り、それを乗り越えるために、作品をどうデフォルメするかが演出家の課題になる。この上演では、余計な科白を削るだけでなく、原作にない科白を僅かに加えて葛藤を浮かび上がらせた。そして、「無意識」という言葉を妻のラウラが何度も言うように、『父』(1887年)はフロイトを先取りする精神分析的なところがあり、この演出では、娘や妻はチョークで壁や床に幾つも「心の図」を描いてみせる↓。夫は、黒板に家計の数字を書くだけなので、この対立自体が精神分析的だ。また、ラウラがテニスの観戦台のような高い「台」に座って上から目線の優位に立つなど、舞台装置はシュールに作られており、スタイリッシュな服装といい、雷ストレンジャーズの舞台は、人の姿勢や動きが美しい。

『父』の主題は、夫婦という存在が必然的に持たざるをえない葛藤であり、生まれた子を父母のいずれが支配するのかという対立である。子を産んだ母はその子が自分の子であることは100%確実であるが、父は、妻に浮気の可能性がある以上、自分の子であるかどうかは分からない。現在ではDNA鑑定ですぐ分かるようになったが、それは最近のことであり、この条件を差し引いても、『父』の主題は深い普遍性を持っている。妻も外で働き、避妊も容易で確実な現在では、妻の浮気の可能性はむしろ増えているかもしれない。家父長的な権力で子を支配しようとする父に対して、浮気の可能性を匂わせて妻が正面から戦いを挑み、夫を猜疑心の泥沼からさらに狂気へと追い込み、戦いに勝利するというのが、『父』の内容である。美人で魅力的で、ノンシャラントでサラッとしている妻のラウラを辻しのぶはとても上手に演じている。こんなに魅力的な妻に、「私が浮気してないって、あなたどうして言えるのかしら?」とサラッと言われたら、夫は敗北せざるをえない。つねに冷静で論理的に議論する妻に対して、夫の大尉は、すぐ感情的になり、やたら大声を出して威圧するだけなので、これでは娘も母の味方になるわけだ。


『父』がDNA鑑定の有無というコンテクストの差異を越えて現在の我々に強い感動を与えるのは、夫婦という存在と男女の愛とのズレを主題にしているからだ。ラウラは、母親が息子を愛するように夫を愛することはできるが、男女の愛として夫を愛することはできない。新婚の頃にはこの愛があったが、今は消えてしまったと彼女ははっきり言う。「俺は、男になることで、女のお前を征服しようとした」という夫に対して、ラウラはこう答える、「それが間違いだったのね。母親はあなたの味方よ、いいこと、でも女は敵。男と女のあいだの愛は戦いなのよ。あたしが自分を与えたなんて思わないでね。あなたは決して与えない、取っただけ、ほしいものを取っただけ」(第5場)。この科白は、『父』のすべてを言い表しており、フロイトが言ってもおかしくない。男女の愛はほとんどなくなったけれど、離婚はせずに夫婦ではあり続けるというのは、現代日本ではよくあることではないか。登場人物が、父、母、娘の他は、妻の兄の牧師と、かかりつけの医師、そして父の乳母というのも、精神分析的な主題性をよく示している。牧師は生殖(=結婚と子供の誕生)と死に関わり、医師は生きている肉体に関わり、乳母は母子関係に関わる、それぞれ専門家である。牧師(霜山多加志)も医師(松村良太)も、いかにもそれらしく、しかも「夫」の立場の難しさを大尉と共有する人物として、とても上手に演じられている。考えてみれば、夫の立場というのは、本質的に難しいところがある。終幕直前、「子供と会いたくないの?」と聞くラウラに、死を前にした夫はこう返す、「子供? 男に子供はいない、子供がいるのは女だけだ。だから未来は女のものになる。ああ、神よ、子供を愛したもう神よ!」。この絶望の叫びは、大尉のような家父長的な「悪い夫」でなくても、夫一般が共有するのではないか。あと、狂気を認定された夫が着せられる拘束服の実物を初めて見たが、なるほど良くできている。簡素で、とても機能的で、こういうものを考案する人間というのは、こわい存在だ。美人でサラッとしている妻ラウラは、夫という立場からすれば、とてもこわい女だ。クレオパトラマクベス夫人よりも、女としてはこわい。ストリンドベリは、どこか人間の「こわさ」のようなものを表現していると思う。