ベルリン・コーミッシェ・オーパー『魔笛』

charis2018-04-08

[オペラ] ベルリン・コーミッシェ・オーパー『魔笛』 渋谷 オーチャド・ホール 4月8日


(写真右は、パミーナとパパゲーノ、生身の歌手が歌っているのだが、周囲はすべてアニメーション映像なので、歌手自身もまるでアニメの映像のように見える、下は、巨大な蜘蛛の姿になった夜の女王、骸骨のところに、実物が顔だけ出して歌う、タミーノとパミーナもいるが、タミーノは実物、パミーナは映像)

ベルリン・コーミッシェ・オーパーによる、モーツアルト魔笛』、演出はバリー・コスキー。非常に面白い作りで、全体がアニメの大映像になっていて、その中に埋め込まれたように、歌手が歌う。音楽のない科白部分は、無声映画方式で、大きな文字のドイツ語の文章が映し出される。文章が映し出されるだけだと無音になっていまうので、そのシーンでは、モーツァルトピアノソナタの色々な部分が(ややテンポは遅く)演奏される。たしかにそのシーンの感情を表現するのにふさわしい旋律があるのだな、と感じる。アニメ映像を基調にしたことで、いろいろと面白い表現ができる。たとえば、パパゲーノとパミーナが一緒に逃亡するシーンは、背景となる映像全体が動くので、二人は屋根から屋根へ飛び移っている。また、夜の女王のアリアのシーンでは、キャミソール一枚になったパミーナが必死で走るのをめがけて、女王がナイフを次々に投げるので、これはもう完全に母が娘を虐待しているのだと分かる(どちらも下記のYoutubeに映像あり)。あるいは、追っ手のモノスタトスたちが、グロッケンシュピールの音色を聴いて踊り出すシーンは、モノスタトスたちが下半身だけラインダンスのガールズになってしまうのが、とてもいい。写真下は↓、ラインダンスのガールズたち、上半身はグロッケンシュピールの鐘になっている。

だがアニメ映像にしたことのマイナス点もある。そもそも映像そのものが何かを語っているわけで、しかも激しい動きがあるので、どうしても映像に気を取られてしまい、歌や音楽を聴く集中度が落ちることである。たとえば、ピーターパンのティンカーベルのような妖精が飛び回るシーンは多いのだが(写真下↓)、少しメルヒェンが過剰ではないだろうか。三童子が「蝶」になっているのは、確かにいい。彼らは羽のある天使であって、笛とグロッケンシュピールを手渡し、神の恩寵としての愛をもたらすのだから。そして、自殺を思いとどまったパミーナが蝶になって三童子とともに飛ぶのもいい。しかし、タミーノの笛で動物たちが踊り出すシーンは、本来は、踊り出すのが動物だという、もうそれだけで感動的なシーンなのだが、今回は、最初からアニメ映像で、黒ネコやら狼やら動物がすでにたくさん出てきているので、動物映像に新鮮さがなく、このシーンの感動を薄めてしまっている。

魔笛』の内容面では、演出のコンセプトは非常に良かった。コスキーはプログラムノートでこう語る。「『魔笛』に一貫しているのは深刻な孤独です。作品の半分を占めるのは「人はみな孤独」という考えです。愛を求めてもなかなか得られない人たちが・・・、さまざまな「愛の探究のかたち」を見せてくれるのです」。『魔笛』の真の主人公は、パパゲーノとパミーナだが、二人とも愛が得られず自殺しようとする寸前に、三童子によって救済され、タミーノとパパゲーナが与えられる。愛を得られずに死まで考えた孤独な人間が、最後に愛を与えられる喜びと幸福。これこそが『魔笛』という作品のイデーであり、本上演は、それがとてもよく分かる演出になっていた。写真下↓は3人の侍女。

下記は4分33秒の紹介映像。どういう舞台なのか、これで十分わかります。
https://www.youtube.com/watch?v=tdFBFGTiE3s&feature=share