栗山民也演出、イプセン『ヘッダ・ガブラー』

charis2018-04-11

[演劇] イプセン『ヘッダ・ガブラー』 渋谷、コクーン 4月11日


(写真右は、ヘッダ(寺島しのぶ)とブラック判事(段田安則)、写真下は、テスマン(小日向文世)、エルヴステード夫人(水野美紀)、ヘッダ)

私はこの1年半に『ヘッダ・ガブラー』を4回見た。ルーマニアマジャール劇場、三浦基演出の地点、ヴァン・ホーヴェ演出のNTL映像、そして今回。地点はまったく理解不能だったが、残り三つは、それぞれに特徴のある成功した上演だと思う。重く暗い主題の作品だが、マジャール劇場は軽快な音楽を活用して喜劇調に仕立て、NTLは、「野鳥のような女」ヘッダの美しさを前景に押し出した演出だった。今回の栗山演出版は、重く暗いままで、衝撃度の強い舞台だった。第一幕80分を、激しい葛藤の高いテンションでずっと引っ張ってゆき、第二幕55分も、すべてが感情の爆発の連続だ。これはこれで十分に衝撃的な舞台なのだが、私は何かが違うという違和感をもった。それはヘッダの存在が強烈すぎて、他の人を完全に圧倒していること、ヘッダという女性に美しさが感じられないこと(寺島しのぶが美しくないという意味ではない)、そして、最大の欠陥は、ヘッダに共感できない、ヘッダに愛おしさを感じることができないことではないだろうか。最後、ピストル自殺したヘッダについて、ブラック判事は他人事のように、「人間は、こんなことはしない」と突き放すように言って終幕。ヘッダは「人でなし」「狂った女」なのか、もしそうならば、今回の演出はその線に沿った演出といえる。『ヘッダ・ガブラー』はほとんど不条理劇ということになる。だがヘッダは、意地悪で、感情の起伏の激しい、ちょっと変な女ではあるが、全体としてもっと軽やかで、可愛げもあり、我々が愛おしさを感じることのできる女なのではないだろうか。ヘッダは新婚の夫テスマンを憎んでおり、結婚生活への彼女の不満、苛立ちがこの劇の主題であることは間違いないが、寺島しのぶの、こわばった表情、敵意と憎しみに満ちた顔があまりに凄いので、これではヘッダは、結婚にまったく向いていない女であるだけでなく、そもそも人を愛することはできない女になってしまう。自分の妊娠を意識するときの、あの憎悪に満ちた表情は、とても恐ろしい顔だ。ヘッダは、憎しみだけを生きる力にしている人間なのか。(写真下↓)


今回、初めて気が付いたのだが、最後、死んだレーヴボルクの断片ノートから彼の著作を甦らせるために、エルヴステード夫人とテスマンが協力して作業を始めるシーンは、実はとても素晴らしい場面なのだ。二人はレーヴボルクを愛しているし、断片から文書を構成するのは歴史学者テスマンのもっとも得意とするところ。二人は、凡庸で、特に取り得もない女と男。ヘッダから「頭わるい、バカ」と罵倒されたエルヴステード夫人、能天気な人文系ヘタレ学者で、男としての魅力もまったくないテスマン。でも二人は、人を愛することができる。そう、二人はじきに結婚するだろう。そして良い夫婦になるだろう。一方、ヘッダは、どこまでも人を愛することのできない人間なのか。元カレであったレーヴボルクとの関係も、実は冷ややかなものだったのか。だとすればヘッダの自殺も必然で、我々が彼女に共感できないのは当然だ。ヘッダはレーヴボルクにピストルを渡し、「美しく死になさい」と言って冷ややかに笑った。これは本当に心凍るシーンで、ヘッダは悪女などという生やさしいものではなく、死に神というべきだろう。『ヘッダ・ガブラー』は、あるいはそういう物語なのかもしれない、と思わせる舞台だった。深刻な悲劇で、しかも観終わったときにカタルシスがない。非常に怖い作品だ。『ヘッダ・ガブラー』は、見るのがこんなにも辛い作品だったのか。エルヴステード夫人とテスマンの最後の編集作業、そこにしか救いがない。