横浜美術館『ヌード展』

charis2018-05-05

[展覧会] 横浜美術館『ヌードNude ―― 英国テート・コレクションより』 5月4日


(写真右は、マン・レイの「無題」1931年頃、今回見た中で、もっとも美しいと感じた作品、写真下は、フィリップ・ウィルソン・スティア「座る裸婦―黒い帽子」1900年頃、今回見た中で、衝撃度の強い作品、作者は1941年にテート・ギャラリー館長に対して、「帽子をかぶっているから、この作品はみだらであると言われた、だから展覧会に出したことがない」と語った、つまりそれまでは秘蔵されていた)

ヌード作品は、男女どちらの裸体であっても、直截に性を表現しているので、それを観る者に性的欲望を喚起することと、完全に美的に「昇華」されていることとが、どのように関係するのか、むずかしい問題を孕んでいる。今回の展示で、まず私が美的に「昇華」されていると感じたものから挙げてみたい。上記のマン・レイの作品はとりわけ美しいが、下記もそれに劣らず美しい。
まず、ウィリアム・マルリディ「裸体習作」1842年↓

次に、アンナ・リー・メリット「締め出された愛」1890年、描かれているのはクピド、すなわち少年である↓。

彫刻はロダンの有名な「接吻」が美術館の中心に置かれ、とりわけ人気だったようだが、私にはもっと抽象的にデフォルメした肉体の方が、ずっと美しく感じられた。三つあげると、まず、アレクサンダー・アルキペンコ「髪をとかす女性」1915年↓

そして、アルベルト・ジャコメッティ「歩く女性」1934年頃↓、タイトルが素晴らしい!


埴輪を思わせるような、バーバラ・ヘップワース「女性像」1930年↓

美しいというよりは、衝撃度の強かったものとして、アンリ・マティス「青の裸婦習作」1900年↓

有名なエドガー・ドガ「浴槽の女性」1883年頃↓、私には美的に昇華された作品と感じられたが、ドガは自註で、「これまでのヌード作品は観客に見られるためにポーズをとってきたが、しかし私が描くのは[そういうよそ行きのヌードではなく]、・・・いわば慎み深いごく普通の人間を、われわれは鍵穴を通して彼女たちを覗き見ているのである」と述べている。「鍵穴を通して覗き見る」というのは、描く者と描かれる者との関係を端的に表現している。アラーキーの「私写真」とも繋がる問題だと思った。