サルトル『出口なし』

charis2018-08-29

[演劇] サルトル『出口なし』  新国立劇場小H 8.29


(写真右はポスター、下は舞台、左からエステル(多部未華子)、ガルサン(段田安則)、イネス(大竹しのぶ))

この作品は、死んだ三人の男女が、ある部屋に閉じ込められ、ここが地獄なのだという話だが、サルトル哲学のキャッチフレーズともいうべき、「人間は自分のなろうと思うものになる」(ガルサン)、「地獄とは他人のことだ」(ガルサン)、「私はただ、あなたを見ている視線」(イネス)などの言葉が、登場人物の口から実際に語られるのが面白い。どんな場面でどんな風に言われるのか、注意して聞いていたが、どれもなるほどと思われて違和感がない。というより、この三つの科白はどれも舞台のテンションが異様にあがった最後の最後に語られるので、作品のテーマそのものと言える。ただし、「人間は自分のなろうと思うものになる」というガルサンの科白は、まさに彼自身がそれを裏切っているから、虚偽の命題ということになるだろう。彼は、リベラルな新聞の編集部にいたが、いざ戦争が始まると逃げ出して、国境で囚われ銃殺されるという惨めな死に方をした。その彼は、「自分は臆病者ではない」ことにひどくこだわっており、他人に臆病と思われたくないのだが、エステルもイネスも最後まで彼が臆病者であることを否定しないので、それが彼を絶望させる。ガルサンという自我には実体も本質もなく、要するに、他者の目にどう映るか、他者にどう見えているか、自我にはこれだけしかないのだ。彼は偉そうに言った、「僕は勇士であることを夢見たんじゃない。僕はそうなることを選んだのだ。人間は自分のなろうと思うものになるんだ」と。だが、彼が「臆病者でない」ことの根拠は、エステルにそう言ってもらうことにしかないのに、彼女はそれを言うことを拒んだ。写真下↓の中央はイネス。イネスは「嫌な女」だが、それは彼女が他者を映し出す鏡だけの存在であることによる。大竹しのぶは、こういう「嫌な女」を演じさせたら本当に上手い。

この作品は、ある意味で人物造形が図式的なところが面白いと思う。まずイネスは「対自」に近い存在で、自分は鏡であり、他者を映し出すだけで、自分は何者でもないと思っている。彼女はエステルを自分の瞳に映して彼女に見せ、鏡の代役を務める。彼女が生前「郵便局員の女」であったのは、他者の情報だけを扱う立ち位置の比喩だろうか。彼女には「生活感」がない。一方、エステルは「即自」に近い存在で、彼女は自己意識というものがなく、自分を他者の目で捉えることがない。だから、この部屋に鏡がないことは、彼女を恐怖に突き落とす。彼女の生前の部屋には6枚の鏡があり、彼女はつねにどれかの鏡に自分の顔が映るようにして生活していた。つまり、それで自己意識の足りなさをやっと補っていた。ただ、生きるエネルギーは彼女が一番持っているだろう。彼女には「即自」の強さがある。そして、ガルサンは中途半端などっちつかずの男で、「即自」であろうとするが、すぐ「対自」に足を引っ張られて、絶えず動揺している。要するに、自分というものがないのだが、イネスと違うのは、それが自分で分かっていないことである。彼が存在としては一番弱い。そして、こういう男を演じさせたら段田安則は抜群に上手い。


小川絵梨子の演出は、見事なものだと思う。戯曲を読んだときは、ずいぶん暗い話に思えたが、舞台はとてもコミカルで、笑いがたくさんあるからだ。「地獄」にいる三人は、なにかとても人間くさくて、楽しい連中なのだ。なるほど、地獄というのは死後の世界にあるのではなく、我々が生きている「この世」のことだが、結構、楽しい所でもある。「僕を食い尽くすみんなの視線」(ガルサン)とは言いながら、人はみな他者の視線を気にしながらも、それなしでは生きていけないことも知っており、対自の目に映る自分を「演じる」のは決して苦しみばかりではない。地獄もまた楽しである。幕切れのガルサンの科白「よし、続けるんだ!」がそれを表わしている。