今日のうた(88)

charis2018-08-31

[今日のうた] 8月のぶん

(挿絵は杉崎恒夫1919〜2009、戦後長い間、東京天文台に勤めた、歌誌「かばん」に属し、口語短歌を詠んだ、『パン屋のパンセ』が代表歌集)


・ 炎昼いま東京中の一時打つ
 (加藤楸邨1953『まぼろしの鹿』、炎暑の東京の午後1時、屋外の人通りは少ないのだろう、あちこちから時計が1時を打つ音が聞こえてくる、「ご近所の」ではなく「東京中の」と言ったのが卓越)  8.1


・ 炎天の空美しや高野山
 (高濱虚子1930、夏に高野山に遊んだ時の句、高野山は標高800mだが気温は比較的低い、通常の炎天の空はやや白っぽいのだが、この日の「炎天」は抜けるような青空なのだろうか、「空美しや」が卓抜) 8.2


・ 炎天の號外細部よみ難き
 (中村草田男1937『火の鳥』、号外は何のニュースだろう、1937年夏といえば盧溝橋事件つまり日中戦争の開始である、「細部よみ難き」が卓越、「内容がショッキングで、細部の字がよく見えない、日光が強すぎるからなのか」) 8.3


・ イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く
 (初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』2018、作者は1996生まれ、水族館での瑞々しい恋の歌、穂村弘は、「今」を歌った名歌として、栗木京子「観覧車」、小野茂樹「あの夏の」と並べて激賞) 8.4


・ 姿見のわたしとわたしが手をとほす更紗金魚の泳ぐゆかたに
 (大西久美子『ねむらない樹vol.1』2018、大きな鏡の前でゆかたに手を通す作者、生身の自分と鏡の中の自分の二人が、ちょうど逆方向から手を入れるのが面対称に映り、ゆかた地にプリントされた金魚が楽しげに泳いでいる) 8.5


・ うれしみもつらみ、やばみも深くなり喉に刺さった小骨のような
 (田中ましろ『ねむらない樹vol.1』2018、作者1980〜はネット世代か、「つらみ」は私の『大辞林』1988にもあるが、「やばみ」はたぶんネットの若者言葉だろう、でも「やばみ」って何だか面白い、日本語として定着するか) 8.6


・ 傷口に芽吹くがごとく歌生(あ)るれ採れよ心をやすめよと言へ
 (小池純代『ねむらない樹vol.1』2018、作者は歌に向かって語りかけている、「歌よ、傷口から芽吹くように生まれておいで」と、作者は選歌する立場でもある、歌も作者に向かって語りかける、短歌への愛を詠った素適な歌) 8.7


・ ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の脚をそろえて
 (杉崎恒夫『パン家のパンセ』2010、蝉の死骸はたいがい仰向けになっている、それを「ひとかけらの空抱きしめて」と詠んだのが卓越、作者1919〜2009は東京天文台に勤めながら口語短歌を詠み続けた人) 8.8


・ 左手に携帯電話ひらく朝 誰より早い君のおはよう
 (笹井宏之「朝日歌壇」2005年、高野公彦選、作者1982〜2009は26歳で夭折した歌人、この歌も病身で寝たきりの生活の中で詠まれた、携帯メールの「おはよう」を見る喜びが伝わってくる、作者を記念してこのたび笹井宏之賞が新設された) 8.9


・ 呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
 (長谷川かな女1887〜1969、芙蓉の花が美しい季節になった、この句は失恋の句なのだろうか、「大好きな人に振られ、その人を呪うようになった、でもやっぱり好きだわ、彼のこと」という意か、作者は虚子門下で、大正期を代表する女流俳人) 8.10


・ 女立てし七夕竹や井に近し
 (原月舟1889〜1920、「女」は娘なのか妻なのか母なのか、「井に近し」がいい、「七夕」は秋の季語、旧暦の7月7日を新暦に直すと、今年は8月17日になる、明日からしばらくパソコン環境がないので、「今日のうた」を休みます) 8.11


・ 晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない
 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、宇宙の「晴れ上がり」とは、ビッグバンから約38万年後に、宇宙の温度が3000kまで低下し、光子が長距離を進めるようになった時のことを言う、作者は東京天文台に長く務めた人) 8.21


・ 電灯をつけよう参加することがきつと夜景の意義なんだから
 (山田航『水に沈む羊』2016、作者は大都市のマンションに住んでいるのか、自分の部屋の電灯を消して夜景を眺めるのが好きだが、あるときふと気が付いた、そうか、自分の部屋の灯りも夜景の一部なのだ) 8.22


・ 初戀や燈籠に寄する顔と顔
 (炭太祇1709〜71、お盆の燈籠流しだろう、昔は祭事は男女の出会いの大切な場でもあった、先祖の燈籠を流す額と額が触れそうになるくらい若い男女の顔が近づく、それにしても江戸時代から「初恋」という言葉が普通だったのか) 8.23


・ 客僧(きゃくそう)の二階下(お)り来る野分かな
 (蕪村、台風の夜のこと、二階に泊まっている旅の僧が、怖くなったのだろう、家族のいる一階に降りてきてしまった、弱虫な坊さんやね、それにしても今年の夏は早くも台風が多い) 8.24


・ ふるさとの夜の暗さや天の川
 (椿山[久保椿山?1824〜98]、作者は都会から久しぶりに故郷に帰ったのだろうか、明りもあまりなくて夜の暗さに驚かされたが、天の川だけがひたすら美しい) 8.25


朝顔は酒盛(さかもり)知らぬ盛りかな
 (芭蕉1688、「人々郊外に送り出て三盃を傾け侍るに」と前書き、芭蕉は、早朝に、見送りの人とともに出立する旅人と別れの盃を賑やかに酌み交わした、そんなことにはまったく無関心に、傍らにアサガオの花が清らかに咲いている) 8.26


・ 沈黙は剥きだしなれば声いだし声のうしろに隠るるわたし
 (渡辺松男『自転車の籠の豚』2010、「沈黙するとかえって自分の心が「剥きだし」になってしまう、とにかく何かしゃべって、その声の後ろに隠れよう」、そういう時はたしかにある、作者1955〜は第46回迢空賞を受賞) 8.27


・ 手を折りてあひ見しことを数ふればこれ一つやは君が憂きふし
 (源氏物語「帚木」、「指を折って貴女とのこれまでの暮しをを数えてみると、僕が他の女性と会うとすぐいきり立つ貴女の嫌なところは、今回だけではないね」、引き留める駆け引きで左馬頭が恋人に宛てた歌、返しは明日) 8.28


・ 憂きふしを心一つにかぞへ来てこや君が手をわかるべきをり
 (源氏物語「帚木」、「貴方の浮気に辛い思いをしながらずっと耐えてきたのよ、私、でももう限界ね、今回のことはお別れするいいチャンスだわ」、引き留める駆け引きのつもりの彼の歌に、彼女は怒って別れてしまった) 8.29


・ ささがにのふるまひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなさ
 (源氏物語「帚木」、「蜘蛛の動きで僕が夕方に来るって分るのに、昼間にしてね[ひる(=にんにく)の臭いが消える間は待って]とは、ひどいじゃないか」、式部丞が恋人を非難した歌、だが式部丞は紫式部の兄と重なるのが面白い、女の返しは明日) 8.30


・ 逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆからまし
 (源氏物語「帚木」、「毎晩会っている仲ならば、昼間会うのも(ひるの臭いが臭くたって)いやじゃないはずだけど、貴方はそうじゃないからいやなのね」、式部丞(文章博士)の恋人は彼より漢文ができたという、風邪薬を「極熱の草薬」という漢語で表現して面会を断った、紫式部の兄も式部丞で彼女も漢文が異様にできたから、この話は面白い) 8.31