斎藤憐、民藝『グレイクリスマス』

charis2018-12-08

[演劇] 斎藤憐作、民藝『グレイクリスマス』 三越劇場 12月8日


(写真右はポスター、下は、五條伯爵家の人々、右端の階段にいるのが伯爵、その下は、伯爵の後妻の華子と日系人将校のジョージ伊藤)


劇団・民藝の久しぶりの再演。私は、1999年2月1日、5日と、渡辺浩子演出、奈良岡朋子主演で二度見ているので、今回の丹野郁弓演出が三度目。20年ぶりに見たが本当に本当に素晴らしい作品! チェホフの『三人姉妹』と『桜の園』を組み合わせたようなところがあり、敗戦後の華族制度廃止による伯爵家の没落の中で、必死にもがく人々を描くと同時に、戦争、植民地支配、階級、日本国憲法などのコンテクストが深く示されるので、叙事詩的な広がりをもっている。終幕があまりにも美しい。クリスマスイブに、雪がぱらつく程度で景色がホワイトにはならない「グレイクリスマス」、日本国憲法の制定に与った理想主義者の米軍将校ジョージ伊藤は朝鮮戦争で死んでしまった。遺品のオルゴールの音とともに、架空の彼と一人静かにダンスを踊りながら、華子は日本国憲法を暗唱しながら幕が閉じる。抒情詩と叙事詩がかくも高度に一体化した演劇がかつてあっただろうか。写真下は↓、占領下あるいは朝鮮戦争という新しい状況に適応して、生き延びようとする男たち。女たちと違って、男たちの適応と転生は醜い。


私たちの人生は思うようにならない。自分の力の及ばないところで、いつも外的環境が激しく変る。それに打ちのめされながらも、苦しみを克服し、悲しみを喜びに変えようと、必死にもがきながら生きている。チェホフ劇が執拗に描いたように、「ああ、何て生きにくいの、生きるのが苦しい、でも、私たち、生きていかなければ、そう、生きていきましょう、未来を信じて・・・」。そうなのだ、これが私たちの人生なのだ。『グレイクリスマス』では、華族制度が廃止され、伯爵家の人々も苦しみながら転生する。だが、「生き方を変える」のは、何と難しいのだろう。伯爵家の女たちは、得意の英語を生かして米軍将校相手のホステスをするなど、たくましく状況に適応し、楽しげに転生してゆく。彼女たちの転生は美しい。一方、男たちも、必死で適応するが、アメリカの反共政策への転換や朝鮮戦争特需で復活するなど、男たちの転生は醜い。おそらく、男たちの方が社会的文脈に絡め取られる度合いが強いからだろう。『グレイクリスマス』は一人一人の人物造形が素晴らしい。伯爵その人は、どうしようもなく子供っぽい幼い性格だが、とことん無垢なところがあり、『白痴』のムイシュキンがもし老人になったら、こんな人物だったろうと思わせる。そして、本作の本当に重要な人物は、伯爵令嬢である雅子ではないだろうか。写真下は↓、華子と雅子。

雅子は、『かもめ』のニーナや『三人姉妹』のイリーナと本当にそっくりだ。非常にマゾヒスティックで、しかもその愛は成就しない。朝鮮人のたくましい闇屋の青年・権堂に雅子は惹かれてゆくが、彼女の愛は、痛々しいまでにマゾヒスティックである。伯爵家の女たちの中で、たぶん彼女だけは転生に失敗するだろう。彼女が権堂に向って「愛してるって言って!」と唐突に叫ぶシーンは、本当に胸が塞がるような悲しいクライマックスだ。本作には、華子の日本国憲法朗読の一人ダンスシーンと並んで、二つクライマックスがある。しかし、あらためて考えてみると、ニーナ、イリーナ、雅子、そして『ガラスの動物園』のローラといった現代演劇が形象したヒロインたちは、現代では、ヒロインはまさにそのようにしかありえない必然性があるようにも思われる。それは、妄想と狂気の中にしかもはや純愛はありえないことであり、マゾヒズムの中で愛そのものが挫折するということでもある。この舞台では、闇屋の権堂を演じた岡本健一と、華子を演じた中地美佐子が素晴らしかった。