無名塾、イプセン『野鴨』

[演劇] 無名塾イプセン『野鴨』  無名塾稽古場  2月13日

 (写真下は、舞台から、稽古場の狭い空間だが上下の使い方がうまい、役者は有名俳優ではないと思うが、演技のレベルは高い)

f:id:charis:20190208142156j:plain

イプセン『野鴨』は見るのは初めてなのだが、イプセンはどの作品も、見た後に「後味の悪さ」が残る。『野鴨』は特にそうなのかもしれないが(初演時は酷評された)、演出が悪いのではなく、イプセンの作品は悲劇なのにカタルシスがない。笹部博司演出は、翻訳された戯曲ではなく自分で書き直した上演台本を使う。本作も、登場人物が少なかったり、科白が書き換えられているが、それ自体は悪いことではないと思う。それよりも、脇役、端役をカットして、主筋だけで舞台を構成した結果、緩急の緩の部分がなくなり、テンションが高くなりすぎて、見るのに疲れるという問題が生じる。登場人物にも観客にも感情の生起と変化があるわけで、感情の起伏には一定の時間が必要であり、レコードの早回しのようにはできない。演劇には、ベルクソン的時間が流れるのだから。ただ、戯曲通り完全に上演しても、たとえば『ヘッダ・ガブラー』で感じたように、イプセン劇は異様にテンションが高いのだと思う。笹部の上演台本の解説によれば、イプセン劇は、我々の誰もが持っている「心の闇」、「心の中の暗い力」が主題であり、それと戦って生きることが、我々が生きることだ、ということを示すのがイプセンであり、そこがチェホフとは違う。「ヘッダ・ガブラー」はイプセン自身が恋愛関係にあったが性愛関係はなかった若い女性エミーリエについて、彼がもった「性的妄想」を表現したものだとすれば、たしかにあの作品はよく理解できる。『野鴨』では、イプセン自身が母の不倫の子であると噂された、イプセンは16歳で家族も故郷も捨てて家を出て、一生戻っていない、イプセンの幼少時に住んだ家は『野鴨』のような屋根裏部屋があった、彼のただ一人の理解者であった妹のヘドヴィクが最後に自殺する少女の名前になっている等々、イプセン自身の人生が作品に色濃く反映しているのだ。写真下は↓、左から母のギーナ(渡辺梓)、娘のヘドヴィク(高橋真悠)、父のはずだったヤルマール(渡邉翔)。

f:id:charis:20190208144650j:plain

それにしても、人間、とりわけ男は、男女関係に関してなぜかくも愚かなのだろう。主人公の二人の若者、クレーゲルスとヤルマールはともに理想主義者で、嘘のない真実の上に結婚生活がなければならないと信じている。もう一人の主人公である女中のギーナは、奉公先の旦那に犯されて妊娠し、旦那はたまたまそばにいた若者ヤルマールに彼女を押しつけて結婚させてしまうが、ギーナは妊娠のことは隠してヤルマールと結婚し、15年間、とても幸せな家庭を築いてきた。医師レリングが言うように、男女関係は、真実など不要で、嘘に嘘で厚着しなければ、幸福な関係ではありえない。あきらかにこちらが正しく、ギーナも、もう一人の女中セルビー夫人もそう考えて生きている(旦那と再婚するセルビーは「私たちは真実を互に明かしています」と言うが、これは嘘にちがいない)。『野鴨』では、ギーナはとても輝いて、魅力的な女性に見える。14才の娘ヘドヴィクの自殺は本当に辛いが、嘘で塗り固めなければ幸福な男女関係はありえないかどうか、これは普遍的なテーマであると思う。写真下は、飼っている野鴨の籠を持つヘドヴィクと両親。

f:id:charis:20190214095324j:plain