平田オリザ 『銀河鉄道の夜』『走りながら眠れ』

[演劇] 平田オリザ銀河鉄道の夜』『走りながら眠れ』 駒場アゴラ劇場 2月17日

(写真下は、『走りながら眠れ』と『銀河鉄道の夜』、「銀河」は今回でないものも)

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大杉栄伊藤野枝は、日本近代史の中でもユニークで魅力的な人物で、評伝劇に適している。私も、宮本研『美しきものの伝説』や映画『エロス+虐殺』が大好きなので、『走りながら眠れ』にも期待していた。平田オリザの他の劇と同様、会話の科白が素晴らしい。大杉も伊藤も、個性的でぶっ飛んだ人なので、夫婦の何気ない会話もいちいち面白い。しかも彼らは、男と女として、革命の同志として、深く愛し合い、3人の幼い子供を可愛がって育てていることが、よく伝わってくる。しかし、本作は、最後がおかしい。二人は関東大震災のどさくさにまぎれて憲兵に虐殺されたが、たぶん劇では、地震への予期と不安を二人が感じている、ということで終わらせたかったのだろう。だが、それにしては会話が不自然。「地震のドサクサに紛れて革命やっちゃえばいいじゃん」(野枝)、「いや、人の弱みに付け込むのはいかんよ」(大杉)、なんて言うだろうか?

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銀河鉄道の夜』は素晴らしいものだった。2011年にフランスの子供たちに見せるために創られた劇で、1時間以内、俳優は四人までという条件があった。今回観て思ったのは、原作よりいい! というのは、宮沢賢治の作品は日本のカフカであって、子供向けの童話ではないと私は思っているのだが、「銀河鉄道の夜」は、コスモロジーのど真ん中で倫理を説いたユニークな傑作で、子供にも分る。しかしそれにしては、原作は長すぎて冗長で子共には読めない。「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」等が岩波文庫で15頁なのに、「銀河鉄道の夜」は90頁もある。1時間の劇にまとめることによって、原作の主旨が初めて子供にも伝わるものになった。女優が演じる可愛い少年たちもすごくいい。平田オリザは、「銀河鉄道の夜」を、「多くの人と出会って、友人の死を乗り越え成長していく子どもの物語」としているが、まったくその通りで、これは子供向けの寓話なのだ。

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平田は原作から何を切り落とし、何を残したのか。宗教的な匂いのする要素は(十字架や「ハレルヤ」の合唱など)すべてカットし、科学の話は残した。これはとても重要。「どんぐりと山猫」や「銀河鉄道の夜」は相対性理論の影響が感じられ、「銀河」にはブラックホールまで出てくる。「天の川の一とこに大きなまっくらな穴が、どほんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら目をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ目がしんしんと痛むのでした」(岩波文庫358頁)。一般相対論のシュバルツシルト解が出たのが1915年、「ブラックホール」という言葉が作られたのは1964年だから、1933年に死んだ賢治がブラックホールを知っていたのは素晴らしいことだ。平田はちゃんと「ブラックホール」と言い換えて説明し、ブラックホールに落ちていくところでジョバンニが夢から覚めるようにした。最初の教室で、先生が「日本では「天の川」だけど、ヨーロッパでは「ミルキー・ウェイ」です」と、短く言い直し、原作の冗長な説明よりも良くなっている。これは、ジョバンニが病気の母のために、当日届かなかった牛乳をもらいに走り回るのだから、重要な発言なのだ。

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銀河鉄道の夜」は、押しつけがましくない仕方で倫理を子供に説いている。冒頭の小学校の教室からして、先生は、「ジョバンニさん・・、カンパネルラさん・・」と「さん」付けで呼ぶ。子供だけれど、一人の人格とみなしているわけだ。そして、「銀河」は、賢治の思想を真正面から打ち出した作品でもある。賢治は、「自分だけ幸福になることはできない、皆が一緒に幸福になるのでなければ、自分も幸福になれない」と、一生懸命それだけを説いた。ジョバンニはいじめられっ子であり、ザネリはいじめっ子、他者を出し抜いても自分が勝てばよいと思っている。カンパネルラは、ただ一人、ジョバンニをいじめない子だ。そして、川に落ちたザネリを助けたカンパネルラは溺れ死んだ。平田版では、「イタチに食べられて死ぬ方が良かった」と嘆く井戸で溺れるサソリの話も、しっかり前景化している。これは生態系の食物循環を踏まえているだろう。私は、この演劇版『銀河鉄道の夜』を観て、カントが道徳律(=定言命法)を讃えるとき、「星散りばめる大空の下に立つ人間」、と述べたことを思い出した。銀河鉄道の中で、ジョバンニが会う「多くの人」(平田)は、科学者も含めて、皆ユーモラスで、少し変なところがある。賢治において、おそらくそれは、狭い共同体の外部から来る「他者」なのだろう。自分と自分の仲間だけ幸福になればよいのではない。倫理は、すべての他者に開かれていなければならない。カントの主旨もそこにあるのだが、カントの説き方は、やや押し付けがましい。自分と他者の幸福に結びつけて倫理を説くべきだった、と私は思う。演劇版『銀河鉄道の夜』は、カントと同じことを、押し付けがましくなく、ずっと美的に行っている。「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のおっかさんのために、カンパネルラのために、みんなのために、ほんとうの幸福をさがすぞ」とジョバンニが言う時、人が生きる時にもっとも大切なことを、子供にも分る言葉で言っているのだと思う。