[今日のうた] 94 2月ぶん
(写真は渡辺松男1955~、歌誌「かりん」所属、2012年に歌集『蝶』で迢空賞を受賞、2010年から筋萎縮性側索硬化症(ALS)で闘病中)
- この空に数千億の空がある わたしの手には胡桃がひとつ
(渡辺松男『短歌』2018年1月号、「空」は、地球という大地にいる我々の頭上に広がっている、とすれば、この宇宙の数千億の星に、今、手に胡桃を持っている私のような知的生物がいて、そのそれぞれの頭上には数千億の空がある) 2.1
- シクラメン隣室に置きものを書くすこし寂しく花を思ひて
(岩田正『レクエルド』1995、作者1924~2017は歌誌「かりん」主宰、妻は馬場あき子、大事にしているシクラメンの鉢を、都合でちょっと隣室に置いた、そしたら、ものを書く最中にその鉢が気になって仕方がない) 2.2
- Amazonのボタン押すだけ 5時間で届くメイドインコリアのキムチ
(カン・ハンナ「膨らんだ風船抱いて」2017、作者は韓国から日本に研究者として留学している人、韓国産のキムチがアマゾンで5時間で届くのだ、消費と物流は昔とずいぶん変わった) 2.3
- 何事もなくて春立つあしたかな
(井上士朗1742~1812、作者は江戸時代の医師で、名古屋の俳人、「病気、事故など特にこれということもなく、穏やかな日常として、立春の日の朝を迎えることができた」、今日は立春)2.4
- 冬木流す人は猿(ましら)の如くなり
(夏目漱石1899、前句に「谷深み杉を流すや冬の川」とある、切り出した太い杉材を、巧みに操りながら谷川に流しているのだろう、それを繰る樵(きこり)は、まるで「猿の如くに」敏捷に動いている) 2.5
- 春の風邪あなどり遊ぶ女かな
(三宅清三郎1898~1969、作者は虚子門下「ホトトギス」同人、銀座に画廊を経営もした、この句も「遊ぶ女」というのがいい、銀座のバーのホステスだろうか、今のインフルエンザならそうもいかないだろう) 2.6
- 人妻と何(あぜ)かそを言はむしからばか隣の衣(きぬ)を借りて着なはも
(よみ人しらず『万葉集』巻14、「「私、人妻だからダメよ」なんて、何でそんなことを言うの、君だって隣人から服を借りることがあるでしょ、だったら人妻だからダメってことはないのに」) 2.7
- むばたまの闇の現(うつつ)はさだかなる夢にいくらもまさらざりけり
(よみ人知らず『古今集』巻13、「いやあ、君とやっと会えて一夜を過ごしたけど、真っ暗な中で何も見えなかったよ、これじゃ、くっきりした夢で君と会うのとたいして変わらないよ」、彼女がつれなかったのか) 2.8
- 恋しとは誰(た)がなづけけむ言(こと)ならむ死ぬとぞただに言ふべかりける
(清原深養父『古今集』巻14、「<恋しい>なんて生ぬるい言葉、いったい誰が名付けたんだろう、ずばり<死ぬ>と言うべきだったよ、だって僕は<死ぬほど恋い焦がれ>てんだから」) 2.9
- 瞳に古典紺々とふる牡丹雪
(富澤赤黄男『天の狼』1941、著者の眼は一心不乱に「古典」の文字を追っている、窓の外では、暗く見えるほどに大粒の雪が降りしきっている、その雪は少し青味がかって「昏々と」ではなく「紺々と」降るように見えるのか、昨日は関東にも久しぶりに雪) 2.10
- 降る雪が川の中にもふり昏(く)れぬ
(高屋窓秋『白い夏野』1936、地上に降り積もる雪と違って、水が動いている川の表面に雪が降りしきるのは独特の味わいがある、作者はそれをずっと見詰めていたのだろう、ついに完全に昏れて、まったく見えなくなってしまった) 2.11
- 襯衣(しゃつ)袴下(こした)番兵凍る洗濯日
(渡辺白泉1944、作者1913~69は当時、海軍に徴兵され函館にいた、「袴下」はズボン下のこと、凄く寒かった洗濯日、洗濯して干した「襯衣袴下」が凍った、じっと立っている「番兵」も心なしか「凍っている」ように見える) 2.12
- 恋人をやめたときから君の目を眼鏡越しでしか見られなくなる
(鈴木晴香『夜にあやまってくれ』2016、作者は、彼が恋人であるときは、コンタクトレンズだったのだろうか、それとも、眼鏡だったけれども、彼といるときは、はずしていたのか) 2.13
- ゆびさきで閉じた瞼にふれるとき睫毛こまかくふるえておりぬ
(野口あや子『夏にふれる』、この歌は2010年の作、彼氏の「睫毛がこまかくふるえている」のは変だなと思ったら、前の歌からすると「いもうと」を詠んでいる) 2.14
- コンサイス英和辞典の「embrace」という語に小(ち)さきふせんを貼りぬ
(笹岡理絵『イミテイト』2002、作者1978~の他の歌からも分るのだが、作者は「しっかりと抱きしめられる」のが大好きな人、当然、辞書にも付箋を貼っている) 2.15
- はんの木のそれでも花のつもりかな
(一茶、ハンノキは春先になると、松笠のような果序に混じって、茶色い細長い尾状の雄花序がたくさんぶら下がる↓、しかし花には見えない、でも現代俳句にはよく詠まれている、そして古くは一茶がちゃんと詠んでいた、とてもうまい) 2.16
- 石に無く岩には雪の残りたる
(中村草田男『長子』1936、同じ日光を受けても、石と岩では温度の伝わり方、上がり方が違う、「石の上の雪はすっかり解けたが、岩の上の雪はまだ残っている」、こんな簡素な事実報告が詩になるのが俳句) 2.17
- 野とゝもに焼(やく)る地蔵のしきみかな
(蕪村、「しきみ」とは、モクレン科の木で、枝を仏前に供える、「野焼きの火が広がり、その熱で、石の地蔵に供えられたしきみの枝もパチパチと燃え始めたよ、地蔵さまは大丈夫かな」、乾き切ったしきみの発火の様子が生き生きと伝わる) 2.18
- 大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯(ただ)列(なら)び居り
(森鴎外1909年5月刊『スバル』、「凶事(まがごと)」とは何か? 伊藤博文暗殺は同年10月だから違う、兵士死亡などの報告を受けるのか、起立の為だけに会議に「列び居る」と感じる陸軍軍医総監の鴎外) 2.19
- 我(わが)指は氷の如く固まれり春は来(く)れともとけるさまなし
(西田幾多郎1942、西田1870~1945の短歌は概して説明的で、上手いとは言えないが、これはちょっと面白い歌、執筆のペンだこで指が固くなっているのだろう、もちろん春になって「とける」ことはない) 2.20
- とぼとぼとわが辿(たど)る道ひとすぢの眞理に喘(あへ)ぐ心は寂し
(九鬼周造「巴里心景」1925、九鬼1888~1942のパリ留学中の歌、自らをドン・ファンに喩え、女優や踊り子との恋をたくさん詠む中に、ぽつりとこの歌がある、遊んではいても、哲学の苦闘をやめることはない) 2.21
- うき名をばをしむあまりに今はただ逢ふよしもなくなりにけるかな
(樋口一葉、20歳の一葉は、小説の師である半井桃水(当時30歳)と恋仲になった、よほど嬉しかったのだろう、自分から周囲にしゃべってしまい、交際を強く反対され、別れさせられた、その時の歌) 2.22
- けさも又身に燃ゆる火の育つ間(ま)を東の空の黄薔薇わらへり
(宮沢賢治1917、盛岡高等農林学校の文芸同人誌に発表したもので、賢治は21歳、次の歌からすると、体調が悪く部屋で寝ている、「東の空の黄薔薇」というのは、曇りガラスかカーテン越しに見える太陽のことだろう) 2.23
- “Hier ist die Rose, hier tanze”と人いへどこの現実のきびしきに対(むか)ふ
(南原繁『形相』、1938年末の作、政治学者の作者は日本が戦争に引き込まれてゆくのを止められない悔しさを詠む、冒頭のドイツ語は、「ここがローズだ、ここで踊れ」(ヘーゲル)、イソップ寓話の「さあ跳べ、ここがロードス島だ」のもじり) 2.24
- 天才だから帰らざるを得なかつたと平野啓一郎、女だからわれはなほ肯(うべな)はず
(米川千嘉子『牡丹の母』2018、『舞姫』の主人公(あるいは鴎外)はエリートなので、エリスを置いて帰国せざるをえなかった、と平野啓一郎がどこかで言ったのだろう、自分は「女だから」同意しない、と、いかにも作者らしい歌) 2.25
- 椿見れば椿に見られわれに棲む死者もつぎつぎ眼をひらくなり
(小島ゆかり『六六魚』2018、「私が椿を見ると、椿も私を見る、そして、私の心の中にいる死者たちも椿の視線を感じて眼を開く」、人が花を見れば、花も人も見る、禅の言葉に、「人、花を見、花、笑う」というのがあった) 2.26
- 君よりも君の辺(へ)にゐしとほき日のわれが愛しも花蘇芳咲く
(栗木京子『ランプの精』2018、ハナズオウ(花蘇芳)は早春にピンクの小さな花芽を付ける、「二十歳の譜」(角川短歌賞)の作者は今60代、恋人と一緒に映った昔の写真を見たのだろう、「わっ、私ってこんなに可愛いかったんだ!」と、彼氏よりはむしろ私に目が行く) 2.27
- 電車にて背中合わせに立っている誰かのリボンがくすぐったい
(杉埼恒夫『パン屋のパンセ』2010、朝のラッシュ時の満員電車の中だろう、後に立っていると思われる女の子のリボンが、自分の首筋に当たってくすぐったい、でも振り向けないんだよ、顔を想像するだけ) 2.28