小山ゆうな演出 ヴェデキント『ルル』

[演劇] ヴェデキント『LULU』 小山ゆうな演出 赤坂red theater 3月4日

(以下の写真は「ステージ・ナタリー」3月1日の電子記事より転載、上はルル[霧谷大夢]、下は背後に映像も同時に映されるルル、原作では絵画だが、画家のシュバルツ[手前の若い男]を写真家に変えて、映像を同時に映す手法はとても効果的)

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 『ルル』はベルクのオペラは幾つも観たが、演劇版は2013年のラドゥ・スタンカ劇場のプルカレーテ演出『ルル』を観ただけで、これが二度目。今回の小山版『ルル』は、プルカレーテ版と非常に違うのに驚いた。原作は、冒頭の動物使いが、イプセンの人物は「躾けられた家畜ばかり」と批判するように、「野生の美しいけもの」としてのルルを、つまり生々しく性的な肉体としてのルルを前景化するのだが(プルカレーテ版はまさにそれ)、この小山版ルルは、洗練され、スタイリッシュで現代的な美女ではあるが、生々しく性的ではない。おそらくプルカレーテ版が原作の趣旨に近いのだろうが、性的な生々しさを抑えてスタイリッシュな美に昇華させた小山版の方が、私は好きだ。ルルと同性愛者のゲシュビッツ伯爵令嬢を、ともに元宝塚女優にしたのがよかった。たしかに原作では、自称父親のシゴルヒが「この女はセックスを売りものにして生活することはできないんだ。なぜって、この女の人生はセックスそのものなんだからな」と言う(終幕)。だが、本当にそうなのだろうか。「野生の美しいけもの」つまり、人間らしい心がなくて肉体だけの女がルルなのだろうか。男性=精神性と、女性=肉体性(自然)という対比は虚構であって、小山版のルルは、どのシーンのルルも、悲しい心が溢れ出る精神的存在のように私には感じられた。原作でも、ゲシュビッツ令嬢は、同性愛者であり男性とのセックスはできないという意味で精神的存在である(原作では彼女は画家だが、小山版では職業は何なのだろう)。だが彼女とは逆に、100%セックスの塊のように言われるルルが、精神性がないのかと言えば、そうではないと思う。ベルクのオペラ版でも、私が見た中では、もっともセクシャルではないクリスティーネ・シェーファーのルルが一番良かった。

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 小山版ルルでは、原作と違って、終幕、最低ランクの娼婦に落ちぶれたルルが、切り裂きジャックに殺されるのではなく自殺する。局部を刺されておぞましい死に方をするのではなく、ルルは、切り裂きジャックの持つナイフをぐっと自分で引き寄せて自分の胸を刺す。みずから自分の人生を閉じる尊厳死である。すぐ続いてジャックは、原作では、ルルの隣に倒れている瀕死のゲシュビッツ令嬢の「下着で手を拭く」ことになっているが、小山版では彼女の美しいスカートで手を拭く。ゲシュビッツは最後の科白を叫んで死ぬ、「ルル! わたしの天使! もう一回顔を見せて! わたしはこんなにそばにいるのよ! このままずっとそばに、いつまでも!」。二人は、愛の中で死んだのだ。小山版のこの終幕には、明らかに、正当な悲劇のもつカタルシスがある。二人の女性が凌辱された姿で死ぬのでは、後味が悪すぎる。小山演出の舞台は、これまで幾つか見たことがあるが、どれもシンプルでスタイリッシュな美しい舞台だった。このような洗練された美しい『ルル』も、やはり「正しい」ルルなのだと思う。

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下記は↓、ラドゥ・スタンカ劇場プルカレーテ演出『ルル』の私の劇評。写真と動画もあります。

https://charis.hatenadiary.com/entry/20130301