鈴木裕美演出、チェホフ『かもめ』

[演劇] チェホフ『かもめ』 4月21日 新国・小劇場

(写真下は、ニーナとトリゴーリン アルカージナとコースチャ)

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『かもめ』実演を見るのは6回目。今回の小川絵梨子翻訳、鈴木裕美演出は、リアリズム寄りのオーソドックスな演出でありながら、強い感銘を与えるので、これが一番良かった。マキノノゾミ演出(2002)や熊林弘高演出(2016)は、感情表現を突出させて、テンションの高い尖がった舞台にする優れたものだったが、鈴木演出は、この作品に含まれる対立的諸要素の均衡と調和がとてもいい。どの人物造形も曖昧になっていない。『かもめ』は、アルカージナを除いて、登場人物のそれぞれがどういう人間なのか曖昧なところがあり、人物像がシャープな焦点を結びにくい。誰もが、感情と行動の結びつきが、ちぐはぐなのだ。キャラクターを現実化させねばならない演出家の負担は大きい。モスクワ芸術座での上演成功に導いた演出のスタニスラフスキーでさえ、最初は「この作品は上演不可能ではないか」と思っていた。(写真下は、アルカージナとトリゴーリン)

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アルカージナは、若いツバメがいれば満足する自己中の女。ニーナは夢見る少女だったが、トリゴーリンに捨てられ、女優としても三流であることが分り、絶望に耐えながらも自分の生きていく道を見出した。コースチャは、極端なマザコンで、ひ弱なオタクっぽい文学青年。ニーナには捨てられ、本物の文学作品は書けず、自分の道を見いだせず自殺する。しかし、トリゴーリンだけは、四人の主人公の一人であるにもかかわらず、どういう人間なのかよく分らない。30代後半の作家で、チェホフ自身を反映している複雑な性格の人物なのだが、『黒テント』版で67歳の斎藤晴彦が演じた時は、さすがに枯れ過ぎていて、違うと思った。熊林版で、32才の田中圭吾が演じる、セクシーでアウトドア派(釣りが大好き)でちょっとニヒルな影のある青年のときは、ニーナが、オタクっぽいコースチャではなく、最後の最後までトリゴーリンを愛する理由も分って、なるほど、これがトリゴーリンなのだと思った。(写真下は、終幕近く、コースチャを捨てて去ってゆく直前のニーナ) 

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だが、今回の鈴木演出では、今まで見たすべての上演と違って、トリゴーリンは、とても弱々しいマザコンの青年になっている。演劇台本を書いたトム・ストッパードは終幕に、「トリゴーリンは、ニーナを捨てたあと母のもとに戻った」という原作にない科白を加えた。なるほど、トリゴーリンもひ弱で傷つきやすいマザコン青年ならば、彼という人物がよく分かる。第三幕の終り、彼はアルカージナに向ってこう言う。「僕には意志というものがないんだ、意志のあったためしがないんだ。無気力で、いくじがなくて、いつも言いなりになる男、いったいこんな男が女にもてるのだろうか。僕をつかまえて、連れていっておくれ、ただ、どうか一歩も放さないでおくれ」(松下裕訳)。トリゴーリンはマザコンであると同時にロリコンでもある。少女ニーナに対する彼の愛は、ロリコンから発するもので、アルカージナに対する愛は、マザコンに発している。マザコンロリコンの両方の要素をもつことは、つまり普通の男性だということだ。よく分かるではないか。チェホフ劇の人物は誰もが、感情と行動がちぐはぐで、妙に居丈高になったり、突然とんでもない時に告白して大恥をかいたり、空疎な哲学的演説を始めたり、とても滑稽になってしまう。しかし、その理由は、「愛」というものは高度に複合的な現象であり、快、不快、喜び、悲しみ、憎悪、怒り、嫉妬、プライド、優越、卑屈、喪失など、たくさんの感情が噴き上がる、もっとも人間的な事象だからだろう。誰もが、本当の愛は得られないままに、必死に、もがきながら生きている。絶望の中に、かすかな希望にすがりつくようにして生きようとするニーナ。人はみな、人生の寂しさと苦さに向き合って生きるしかないのだ。今回の鈴木演出は、終幕に、第一幕の劇中劇の一部をニーナが「再演」するシーンを入れたが(原作では科白を口づさむだけ)、これはとてもよい。「私はかもめ? いいえ私は女優」と叫ぶニーナは、絶望にぼろぼろになってはいても、激しく輝やいている。そう、これこそ『かもめ』なのだ。(写真、一番下は劇中劇)

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