S.カヴェル「愛の回避 ― 『リア王』を読む」

[読書] スタンリー・カヴェル「愛の回避 -『リア王』を読む」 (『悲劇の構造』所収)

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 先日、NTライブの『リア王』を見たが、その前後にリア王解釈を幾つか読んだ。アメリカの哲学者カヴェルが1967年に書いた論考が優れたものだったので、忘れないうちに要点だけメモしておきたい(『悲劇の構造』中川雄一訳、春秋社2016、p69 ~201 )。コーディリアの死について、私は初めて納得いく説明を与えられたように思うので。

 ヤン・コットが『リア王』の主題を「世界の解体と崩壊」と捉えたのに対して、カヴェルは「愛の回避」と捉える。『リア王』解釈の最大の難点は、コーディリアの死の必然性をどのように理解するかである。ヤン・コットは、コーディリアの死を「全シェイクスピア作品で、これほど不快な場面はない」と言った。改心したエドムンドの「助けよ」という命令が間に合わず、彼女が看守に絞め殺されてしまったのは、単なる時間差の偶然であるように見える。だが、そうだとすると、コーディリアの死は犬死に、無駄死にということなる。それは、とても我々には耐えられない。多くの解釈は、コーディリアを「超越的な愛の象徴としてリアの魂の救済を見出す」というものである。コーディリアの死をイエス・キリストの死と重ねるのである。私も今までそのように理解していた。カヴェルも、「コーディリアの死の中に希望がある」(p134)と述べるように、超越的な愛の象徴としてのコーディリアを否定するものではないが、彼女はあくまで人間であり、神の子ではない。つまり、あくまで人間であるコーディリア自身にも問題があり、それが彼女の死を招いた、という解釈である。コーディリアは「愛するふりをする」ことができない、ただ愛することしかできない。そして、リアのような「愛を受け入れることができない」人間が存在すること(=「愛の回避」)が理解できず、それが彼女の死を招いたのである。

 リアは、他者の愛を本当には受け入れることができない人間である。彼には、他者の目に「自分が愛されているように見える」ことだけが重要であり、だから、ゴネリルもリーガンも父を愛していないことを彼は良く知っているが、大勢の廷臣たちの前で彼女たちが「愛しています」と口先だけで言えば、それで大満足する。ところが、コーディリアは本当に父を愛しているので、「愛するふりをする」ことはできない。

  >公然と愛するふりをすることは、愛がないならば、容易である。愛するふりをすることは、じっさいに愛があるならば、明らかに不可能である。(105、このテーゼは、言語行為の限界をめぐって、カヴェルがデリダを批判するポイントでもあり、また別に考察してみたい)

  これこそが、コーディリアの最初の科白、「(aside) What shall Cordelia speak? Love, and be silent. [(傍白)コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう]」 の意味するところである。だがリアは、「愛に報いることができないと知りつつ愛されることは苦痛であり」(104)、他者の愛を受け入れず回避してしまう人間である。彼は、コーディリアの愛を受け止める自信がない。しかしそれでも、大勢の廷臣の前で「自分が愛されているように見える」ことにはこだわった。だから、コーディリアが「Nothing, my lord.[父への愛を語る言葉は]ありません、お父様」と答えたのに対して激怒し、それが彼を狂気に導くことになる。

  >人間は愛を拒むように生まれついているのではなく、そうするように学んでゆくのだ。[幼少期に]私たちの生活が始まるには愛の名のもとに与えられる親密さをすべて受け入れねばならないが、私たちはやがてその親密なものを放棄しなければならなくなる。こうして忌避されたあるいは受容された特殊な愛が他の愛に伝染していくだろう。あらゆる愛は、受け入れられようと拒絶されようと、他のあらゆる愛の中に反映される。・・・私たちは、愛を拒絶すると同時に受け入れるための努力と恐怖の中で私たちはいまにも気が狂ってしまうのではないか。その中で魂が引き裂かれ、身体が引き裂かれる。(120.f)

  この文章はカヴェルのリア王解釈の核であり、『リア王』はそれを奇蹟のように表現した作品である(120)。リアは最後まで「宇宙的な不安や幻想の中に閉じこもり、真心と共感の世界に心を開かない」(125)。彼がコーディリアの愛に応え、彼女の愛を受け入れるのは、彼女の死体を抱き、大声で泣くときである。ああ、遅すぎる! でも、リアの魂は最後の最後に、コーディリアの愛によって救済された。

  『リア王』は、愛を差し出すことによって自分は死ぬという「身代わり」の物語である。愛は、受容されたり拒絶されたりしながら変容し、変容しながらも、木魂のように他者の愛に反映し、伝染し、生きながらえてゆく。それが、リア、コーディリア、グロスター伯、エドガー、ケント伯たちの、生と死の意味するところである。

  >リアは自分の愛を身代わりにした。しかしコーディリアがリアの身代わりであるという事実は、リアが私たちの身代わりであるという事実と矛盾しない。そして彼を身代わりと見ることは、彼が愛を避けていると見ることと矛盾しない。(126)

  >愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない、愛はただ私たちの伴侶となりうるだけである。愛はその地点を感知しなければならない。(97)

  「リアが私たちの身代わりである」というのは、私たちもまた、ほとんどの人は、他者の愛を本当に受け入れることができず、いわばリアと同類だからである。もしコーディリアが、「愛するふりをする」こともできて、「愛を受け入れることができない人間もいる」ことを早く知ったならば、彼女は死なずにすんだであろう (リアが「愛を回避している」ことを彼女が知るのは、第5幕第3場、二人が捕らわれて獄に入る直前で、コーディリアはただ泣くしかない)。しかし、私たちの愛は、どこまでも人間の愛である。「愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない」としたら、そして「愛はただ私たちの伴侶となりうるだけ」だとしたら、コーディリアこそ最高の「愛の伴侶」であり、「愛がその地点を感知した」のがコーディリアの死なのである。