21世紀音楽の会 第16回演奏会

[音楽] 21世紀音楽の会 第16回演奏会  東京文化会館小ホール 5月8日

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 主に東京芸大作曲科出身の作曲家たちの新作発表の場なのか、私は初めて聴く人たちだが、6人の新作はどれも興味深いものだった。現代音楽もまた、平均律を基調とする西洋クラシック音楽から派生したものだが、素材としての音(音響)を音楽形式が支配する際の、その素材/形式の支配関係が、調性音楽とは違ってくる。調性は際立って合理的な支配形式だったわけだが、現代音楽では、十二音技法や微分音の使用、楽器の変則的で極端な音の出し方など、音という素材がどっと解放されて、いわば無政府状態になっている。つまり、素材/形式のバランスが素材に大きく傾いているのだ。

  たとえば、今回の作品では、渋谷由香《潮騒》、高畠亜生楊貴妃玄宗皇帝》は、どちらも楽器音に立ち混じって声の素材性がぐっと前景化するのがスリリングだった。《潮騒》は、ソプラノ、篳篥(ひちりき)を吹きつつ謡う男性、Vl、Vcの4人で構成され、まったく異質な素材が調和を創り出すその様相が素晴らしい。歌といっても言葉はほとんど聴き取れず、楽器音と同じように声という音が響いている。声は、意味をもたらすシニフィアンにはならず、素材が素材として現出している。考えてみれば、日本人の発声は日本語とという言葉をしゃべるように音の素材性が(母音や子音など)制約されており、フランス人の発声はフランス語に合せて音の素材性が制約されているはずだ。それに対応して、聴衆の耳もまた、ふだん聞いている音の素材性の制約があるだろう。とすれば、作曲家は、どの音程の声を出すかという課題以前に、解放するべき音の素材性の「質」の選択がまず問題になるだろう。

  《楊貴妃玄宗皇帝》は、宝生流能楽師二人に、VcとFl、それに楊貴妃を歌うカウンターテナーという5人構成。カウンターテナーが中央に立ち、いわば通奏高音(?)のように基調を作り、その左右に楽器と謡いを振り分けるという「響きの配置」がとてもいい(写真下↓)。二人の低音の謡いは微妙にハウリングを起こすような「揺れ」が快く、まったく異質の声であるカウンターテナーとの素材の差異性が際立ち、VcもFlもどちらかというと尖がった音を出すので、5人の出す音に含まれる素材性のかくも大きな隔たりがバランスするさまは、それ自体がかなり緊張を孕んでいる。どちらかというと同質的なものの間で差異と緊張と調和を創り出す弦楽四重奏のようなものとは、緊張と調和の在り方が大きく異なっている。これが現代音楽の魅力なのだと思う。

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  国枝春惠《花をⅡ》は、Flだけ4人という同質的な楽器の四重奏だが、4本のFlは音の出し方が大きく違うので、それがとても面白い。全体をリードする第一Fl はまるで尺八のような音をだす。滑らかな美しい楽音から、ほとんど空気を擦するようなガサガサ音まで、Flがこんなに多様な音が出せるのに驚いた。楽器の一つ一つが自己主張をしているのだ。作曲者によればこの曲は、「響きが呼応しながら微風になり、あるいは澄み切った空を切って木霊し、かくれキリシタンの声も聞こえるように」意図したとあるが、私には、夜空に流星群が流れ続くなかに、遠い恒星のまたたきも加わるような、そんな美しさに感じられた(写真下↓)。現代の芸術は、19世紀までのそれとは違い、もはや「美」を第一義的に表現するものではないと、よく言われるけれど、しかし私は、現代音楽は非常に美しいと感じる。ただ、緊張と調和からなる美しさの内実が、調性音楽のそれとは異なっている。

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