演劇版 コクトー『恐るべき子供たち』

[演劇]  コクトー恐るべき子供たち』 横浜、KAAT  5月29日

(写真↓は、上が、雪合戦シーン、下が、左からジェラール、ポール、エリザベス、アガート、白い布で作られたシュールな舞台がいい)

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 コクトーの小説(1929)を、ノゾエ征爾が台本、白井晃演出で、演劇化した。原作は、シュールで夢幻的な美しさに溢れており、超現実というか、パリのど真ん中でありながら異世界のような「子供部屋」。学校にも行かず、そこに籠って恋人のように暮す姉と弟。二つベットを並べ、互いの眼前で着替えもする近親相姦的な姉弟の、ピリピリした緊張感がいい。何よりも、地の文が輝くようなメタファーで表現されているのが『恐るべき子供たち』の魅力である。たとえば、「カールした短い髪の下の姉の顔は、もはや素描ではなく、形を整え、混乱のうちに美に向かって急いでいた」(中条訳、p49)、「エリザベートは服を脱ぐ。姉と弟の間には何の遠慮もなかった。この寝室は姉妹の甲羅のようなもので、二人はその中で、同じ体の二本の手のように暮らし、体を洗い、服を着るのだ」(68)、「子供部屋が沖に出たのは、まさにこのときだった。船の帆幅は大きく広がり、積み荷はいっそう危険さを増し、波はますます高くなった」(109) 。しかしそうであればこそ、プログラムノートで台本のノゾエ征爾が言っているように、小説の言葉を演劇の言葉に変えるのが難しい。(写真は↓どちらも姉と弟)

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この演劇版は、登場人物の動きをスタイリッシュに様式化して、舞台をとてもシュールに作ることによって、演劇として成功したと思う。特に最後、姉が、弟とアガートとの恋に嫉妬し、その恋を引き裂き、それが結局、弟の自殺と自分の自殺に帰着するところは、一気呵成に進む緊迫感がある。脇役の登場と役割は劇だけではやや分かりにくいが、単独の演劇作品として十分に鑑賞できる。ただし、小説の超現実であるうちは気にならなかったが、実際に生身の俳優が演じて現実化・肉体化すると、やや違和感を感じたのは、彼らが「もはや子供ではない」ことである。最初の雪合戦の時、姉は16才、弟は14才だが、姉がモデルになりアガートと知り合う時点では19才になっている(p129)。それからマイケルと知り合い、交際があり、マイケルとエリザベスの形だけの結婚とマイケルの死があり、その後にジェラールとアガートが結婚し、小市民的な良識ある結婚生活になるから、エリザベスは最後の自殺のとき少なくとも20才にはなっているはず。『源氏物語』を考えてみても、恋愛する男女としては、彼らはもう「子供たち」ではない。もう一つ、姉弟は、住込みの看護婦もいて、生活に困らない程度には裕福な家庭なのだから、エリザベートはやはりお嬢様なのではないだろうか。この舞台では、彼女が「下町風の、きっぷのいい逞しいねえちゃん」ぽかったので、やや違和感を感じた。(写真下は、アガートと、そしてポールと並ぶエリザベス)

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