映画 ミキ・デザキ『主戦場』

[映画] 『主戦場』 渋谷・イメージフォーラム 6月7日

(写真は、慰安婦否定派の代表的論客、左から藤岡信勝杉田水脈ケント・ギルバート藤木俊一[テキサス親父のマネージャー]、トニー・マラーノ[テキサス親父]。こうした人々に丁寧なインタヴューを試み、じっくり語らせたところに本作の傑出した価値がある)

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 「慰安婦」「性奴隷」を否定し、彼女たちは普通の「売春婦」だったと主張する歴史修正主義者たちは、安倍政権の後援を得てグレンデール市の慰安婦像設置に反対運動をするなど、大きな政治的キャンペーンを張っている。日系二世のアメリカ人であるミキ・デザキはドキュメンタリー映画を試みて、彼らに加え、この問題を正確に追求してきた日本の歴史学者、吉見義明、林博史、そして韓国の社会学者、慰安婦やその子供たち、現代の日本や韓国の若者などに丁寧なインタビューを重ねて、問題点ごとに主張が対照されるようにきわめて上手に編集した。私自身は従来から問題の全体像は知っていたが、歴史修正主義者たちが自説をかくも雄弁に自信たっぷりに語ることが、逆に彼ら自身の認識の誤りを白日の下に晒すのを見て、「歴史の法廷」がまざまざと実現しているのに驚愕した。

 彼らは「慰安婦」が普通の「売春婦」であることを示すものとして、ビルマ慰安婦が高額を日本に送金した記録を自慢げに引用するが、その「高額」は当時日本の1800倍に及ぶビルマのインフレのゆえであることが、すぐ続く歴史学者のインタヴューで指摘される。慰安婦の証拠はないとする国連の報告書は、ほとんどがナチスドイツの調査であること、終戦直後のアメリカ軍の報告書は一将校が自分の体験だけで書いたこと、インドネシアの「スマラン慰安所事件」の裁判記録など、歴史学者慰安婦否定派が論拠にしている公文書記述のコンテクストをいちいち明らかにしてゆく。慰安婦否定派は、歴史の文書に「自分の見たいもの」を見つけたと思って飛び付いたわけだが、それはことごとくコンテクストを無視した「言葉だけの引用」だったことが明らかになる。同一のテクストが、正しいコンテクストの下では、まったく違った意味を立ち現わす。まさに歴史とは、「文書・もんじょ」を巡る戦いなのだ。これをインタビューによる両者の主張の対比によって瞬時に明らかにしたことが、歴史の法廷を可能にした。この映画に登場する慰安婦否定派と歴史学者慰安婦関係者は、現実世界では直接会って議論することはありえないが、それが映画の中では、その論戦が行われ、どちらが正しいか我々観客にはっきりと示される。これは優れたドキュメンタリー映画だけができることで、誰かが書いていたが、かつてアメリカのジャーナリストのエドワード・マローが、マッカーシー上院議員自身にたっぷり語らせすることによって彼の正体を曝露したことに比肩される。

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 それにしても、慰安婦否定派がニコニコして自信たっぷりに語る姿が、彼らの醜さと虚偽をこれほどまでにズームアップしたことに驚かされる。静かなインタヴューそれ自体が、まさに真理と正義をめぐる戦いなのだ。タイトル『主戦場』とは、そういう意味だろう。慰安婦否定派は性差別主義者でもある。テキサス親父のマネージャーである藤木俊一は、「フェミニズムを始めたのはブザイクな人たちなんですよ。要するに誰にも相手にされないような女性。心も汚い、見た目も汚い。こういう人たちなんです」と語る。そしてテキサス親父は、「ブザイクな女とセックスするときは、顔に紙袋をかぶせるよね」と言って、グランデール市の慰安婦像の顔に実際に紙袋をかぶせて、嬉しそうにツーショットの写真を撮っているが、その姿はあまりにも醜い。そしてまた、インタビューに出てくる日本の若者が「いあんふ? 知りませんけど」と答えるのにも驚かされた。河野談話を受けて1998年にはすべての教科書に慰安婦が記述されていたのが、安倍政権の強権発動で、2012年にはすべての教科書から慰安婦の記述が消えた。本当に、日本はいま危機の「主戦場」にある。

@ 予告編の動画がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=SQq5LvhMi1o