[オペラ] プーランク『カルメル会修道女の対話』 METライブ 東劇 6月12日
(写真下は、開幕冒頭の修道女たち、その下は、新たに修道女となるブランシュ)
ジョン・デクスター演出、ネゼ=セガン指揮で、5月11日にMETで上演された舞台。この作品の内容分析については、過去二回見た上演記録に書いたので↓、今回は新たに気が付いたことだけ書きたい。
https://charis.hatenadiary.com/entry/20090315
https://charis.hatenadiary.com/entry/20100207
きわめて洗練されてスタイリッシュな舞台。プーランクの音楽も(1957年作)、明らかに現代音楽だ。黒色と白色だけの修道院と、最後に平服になって修道院を去り、民衆や共和派官憲などに立ち混じるシーンの豊かな色彩との対照が(写真↓)、悲しみを倍加する。フランス革命の中で実際に起こった悲劇、ブランシュだけはフィクションのキャラだが、あとは全員が実話である。ブランシュ、コンスタンス、マリーの三修道女は、いずれも貴族の娘だが、新院長のリドワーヌは肉屋の娘(写真の中央↓)、そして無教養な田舎者の修道女もいて、彼女たちの出自の階級が異なり、彼女たち一人一人のキリスト者としての自己理解も大きく異なり、しかもそれぞれに個性豊かであるのがいい。ベルナノスの原作は映画シナリオなので、一人一人の心の動きが細かくト書きされており、それをすべてオペラで表現することはできないが、全体としてはベルナノスの原作にきわめて忠実に作られている。(写真↓、左の一番前がコンスタンス)
《カルメル会修道女の対話》は、人間の愛、死、魂の救済の関係をとことん突き詰めた悲劇で、私は『リア王』と共通するものを感じる。原作のベルナノスの作品はすべて、人間の「弱さ」を静かに見詰め、それに寄り添うものだが、その点では遠藤周作『沈黙』にも近い。殉教へと導くマリーは、修道女たちの中ではかなり原理主義者だが、私は、もっとも若く、「生をこよなく愛する」少女であるコンスタンスが、本作ではもっとも重要な人物であると思う。彼女は、「人は自分のために死ぬのではなく、お互いのために死ぬのですわ」「私たちが偶然と呼ぶものだって神の論理ではないのかしら」等々と言う。院長の「身代わりの死」というのは奇妙な説に見えるが、殉教が自由意志ではできないのと同様(マリーだけが殉教できなかった)、私たちの生と死はまったくの偶然であり、そこに必然性はない。にもかかわらず、死すべき存在である人間の魂が救済されるのは、我々一人一人が、他者に愛を差し出し、また愛を受け入れる存在だからである。魂の救済とは、来世の話ではなく、現世の話である。コンスタンスが述べていることは、神が存在せず、魂の不死はなくとも成り立つような、キリスト教を超えた普遍的真理であると思う。「私たちは、生まれて、愛して、そして死ぬ」。そう、これだけで十分なのだ。これが「魂の救済」ということだ。リアとコーディリアも、互いの愛の贈与によって、その魂は救済された。《カルメル会》では、修道女たちは愛の絆で強く結ばれている。この愛が、彼女たちの魂を救済するのだ。そして、その中でとりわけ輝いているのは、コンスタンスとブランシュの愛である。今回の舞台では、最後の一人としてギロチンに向かうコンスタンスが、ブランシュが来ないことに動揺して、いったん歩みを止め、後ずさりをする(これは、今回の演出の最高の成果)。そして、まさにその時にやって来たブランシュを見つけ、笑みを交わし合う。「私たち、死ぬ時は一緒よ」というコンスタンスの最初の約束は果たされたのだ。(写真↓は、終幕、コンスタンスを追ってギロチンに向かう直前のブランシュ)
2分程度ですが、動画がありました。
最後のギロチンに向かうシーン。↓
(写真↓は、院長の死とブランシュ)