近松門左衛門 『心中天網島』

[文楽] 近松門左衛門 『心中天網島』 国立劇場 9月7日

(写真下は↓「河庄の段」、小春(吉田和生)と、治兵衛の兄の孫右衛門(吉田玉男))

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 やっと『心中天網島』を通しで見ることができた。この作品は、一人一人の人物造形が細部まで完璧で、感情の揺れ動きが深く表現されており、全体の構成も素晴らしい。最初の「河庄の段」も、ち密な構成によって、内容の濃い、起承転結も含んだ、それ自体で完成度が高いものになっている。まず「河庄の段」が90分、そして30分の休憩をはさんで、残りの三段連続で110分という上演だった。「河庄」では、悲しみに沈む小春は終始うつむいてばかりで、とても暗い。太兵衛と善六のいやらしさと下品さもすごい。そして、治兵衛の愚かしさと対照的に、兄の孫右衛門は、弟だけでなく小春にも深い思い遣りをかけており、情もあつく倫理もしっかりしている人物だ。太兵衛と善六が箒を三味線にみたてて治兵衛をからかう「口三味線」のシーンはとても面白い。シェイクスピアの「劇中劇」と同じ発想なのだが、このシーンや、ダジャレなど言葉遊びで笑わせることができるのも、太夫の優れた語りがあればこそ可能になる。近松門左衛門は字余り字足らずが多く、語りも、それに三味線をうまく添わせるのも難しいらしいが、言葉のリズムの破調にも、たぶん近松作品の秘密があるのだろう(写真下は↓、太兵衛と善六)

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 しかし『心中天網島』が大傑作であるのは、何と言っても、小春とおさんという二人の女性の友情を核に据えたこと、そして、二人の女性を愛の主体として描き切っていることにあると思う。さらに言えば、二人の女性は、「情」としての男女の愛と、男女の愛における「倫理」とを、ぎりぎりまで両立させようとしたからこそ、小春は死に、おさんは離縁させられた。人間として何と立派な生きざまなのだろう! 二人とも正しく生きたからこそ、こういう結末になったのだ。おさんが、治兵衛に小春を身請けさせようと全財産を捨てるシーンは、ありそうもない人間行動だと批判する人もいるが、ここが『心中天網島』の一番の肝であり、おさんのこの行動という一点に、この作品のすべてが賭けられている。「小春を身請けして家に連れて来たらお前はどうするんだ」という治兵衛の問いに対して、おさんが「アッアさうぢゃ。ハテ何とせう、子供の乳母か、飯(まま)焚きか、隠居なりともしませう」と叫んで泣き沈むシーンは、終幕における小春と治兵衛の別行動の心中よりも、さらにそれ以上に、作品全体のクライマックスである。ここには、小春とおさんの友愛が賭けられており、宣長が『源氏物語玉の小櫛』を書いて儒者に反論したように、愛における「情」と「倫理」の葛藤と苦しみが、最高の水準と緊張において提示されているのだ。(写真下は↓、炬燵の横で対決するおさん(吉田勘彌)と治兵衛) 

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 今回の上演では、終幕の「道行名残の橋づくし」の段は、科白が原作よりも切り詰められていたが、これが普通の上演型式なのだろうか。しかし、疑問もある。小春が「自分は治兵衛と心中はするが、おさんとの約束を破りたくないから、それぞれ別の場所で死にましょう」という科白がカットされている。原作では、小春は「その文(=私は治兵衛と別れる、彼を心中させない、という小春のおさんへの手紙)を反故にし、・・義理知らず偽り者と世の人千万人より、おさん様一人の蔑み、恨み、妬みもさぞと思いやり、未来の迷いはこれ一つ。私をここで殺して、こなさん(=貴方)どこぞ所を変え、ついと脇で」と語るが、この上演では、「私をここで殺して・・」以下がカットされている。だがこの科白には、「二人が」心中するのではなく、それぞれが別の場所で死ぬことによって、おさんとの約束を守りたいという、小春のおさんに対する友愛が賭けられている。カットしてはまずい。あと、治兵衛と小春がともに髪を切って、法師と尼になったつもりになるシーンも、カットすべきではなかった。人形の被り物で表現したのかもしれないが(写真下↓)。

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