(手話による)チェホフ『三人姉妹』

[演劇] (手話による)チェホフ『三人姉妹』 池袋・東京芸術劇場 10月20日

(写真下↓は三姉妹、左からイリーナ、マーシャ、オーリガ、第四幕最後の「さあ、生きていきましょう」のシーン、手話だから身振り手振りが豊かだが、実はこのシーンはとても悲しい、下は第一幕の三姉妹)

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 ティモフェイ・クリャービン演出。ロシアのレッド・トーチシアターによる上演。『三人姉妹』とは、こんなにも胸が引き裂かれるような、辛い、悲しい作品であったのか! 私は過去に実演だけで10回以上見ているが、今回がもっとも衝撃的だった。これまで私は、最後の「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ!」には、かすかながらも希望を感じていた。だが、これはむしろ絶望の叫びなのかもしれない。三姉妹は、自分たちの人生にはもう幸福が訪れないこと、このまま老いて死んでゆくこと、を自覚したのだろうか。『三人姉妹』の結幕はそういうことなのか。私は最前列中央席の至近距離で見ていたが、三人とも演じながら泣いていた。役者は、科白がしゃべれなくなるから泣いてはいけないのだが、手話で演じているから、泣いてしまったのだろうか。イリーナは、ひと呼吸のあとのカーテンコールのときにも、目を真っ赤に泣き腫らしていた。『かもめ』のニーナの「わたしはかもめ、いいえ私は女優」も、彼女が女優になれそうもないことは確実だから、これも絶望の科白かもしれない。『ワーニャ伯父さん』の最後、ソーニャの「さあ私たち、生きていきましょう」も、二人は一生結婚できそうもないという予感のもとに言われているのか。だとすれば、チェホフ劇の核心に灯る生命ともいえる、この「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ」は、希望がすべて失われた地点で言われているのだろうか。もう消えてしまいそうな灯、何という小さな灯なのだろう! (写真下↓は、第三幕、火事で町の人達が避難してきた部屋。字幕はロシア語か。今は照明がついているが、ほとんどは真っ暗で、各人が自分の寝床でスマホをじっと見ているのがとても印象的、暗闇ではスマホは小さな灯、その下は、自分のスマホといるイリーナ)

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 今回の上演は、科白がすべて手話だったが、太田省吾『水の駅』に科白がまったくなかったのとも違っている。この舞台は生活音などさまざまな音に充ちている。手話で話す人たちは、身振り手振りが激しく、顔もとても表情豊かに話すので、演劇を、科白も含めた身体による感情表現とみなすならば、手話によって得られるものは、科白を失ったぶんを補って余りあるのかもしれない。この上演では、舞台中央の高い所に、大きな液晶画面があり、そこに科白の字幕が出る。ロシア上演では、たぶんロシア語が映るのだろう。この画面は観客との間の通訳として機能する。そして、女中アンフィーサと守衛フェラポントの二人だけは(アンドレイも?)、普通にしゃべれる上に手話も使うので、彼らは家の外の人達との間の通訳ともいえる。そして、これがもっとも重要なことだが、手話で会話する人たちは、何も音を出さないのではなく、うめき声のような音、科白のような意味はないが、しかし何か意味のありそうな、何かを言いたげな音=声を出す。特にイリーナは、これが一番激しい。そして、他の人も重要な発言になると、手話の身振り手振りに加えて、それに伴って出される音=声が大きくなる。こうしたことは、感情を表現するうえで極めて効果的だ。それから、原作でも、登場人物は、ハミングを口ずさむという仕方で音楽がけっこう登場するが、この舞台では、イリーナがロック風の音楽が大好きで、TVを見てうっとりしている。視覚もまた聴覚を補うのだ。(写真下↓は、音楽する人々、スマホを見ているが、アンドレイはVlも弾く)

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 手話で演じることは、観客にとっては、言葉としての科白と身体表現とが分離されることを意味する。文楽がそうであり、また宮城聡がクナウカで試みているように、演劇の可能性を広げるものだろう。この上演では、字幕が活躍していることも重要だ。たとえば、「さあ、生きていきましょう」に次いで二番目に重要だと私が思う科白は、しっかり字幕で示される。婚約者トゥーゼンバフから「君は僕を愛していないね」と尋ねられたイリーナは、こう答える。「それは私にはどうにもならないわ。私はあなたの妻になります。忠実で従順な妻に。でも愛は無理、どうしようもないの。(泣く)生まれてから一度も私、人を愛したことがない!」。この科白は、やはりこの通りに言われなければならず、表音ではなく表意文字である手話で完全に表現するのはかなり難しいのではないだろうか。あと、この舞台では、イリーナが活発な少女に造形されており、彼女はマーシャに似ている。原作そして私が見たすべての舞台では、イリーナは、将軍家の末娘でおとなしい受動的なお嬢様だったが、この上演では違う。それは、手話だから可能になったのだと思われる。手話プラス字幕というのは、演劇に新しい可能性を開く表現形式になるだろう。スマホで短いメールをやり取りするのもいい。たとえば、不倫関係にあるマーシャとヴェルシーニンは、原作では、「トラム・タム・タム」「トラ・タ・タ」と『エフゲニー・オネーギン』(?)のハミングを、愛の暗号として交し合うが(他者には分らない)、この舞台ではそれをスマホのメールで遣り取りする。表音に近い言葉は、手話ではむずかしく、聴覚障害の人達もたぶん筆談が必要だろう。スマホのメールはそれを瞬時にやってのけるのだ。(写真下↓は、活躍するスマホと自撮り棒)

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2分間の動画が↓。最後の「さあ生きましょう、私たち、生きていかなければ!」のシーンもあります。軍楽隊の行進曲は消されていますが、ステップを踏みながら踊る三姉妹。

https://www.geigeki.jp/ch/ch1/t221.html