映画『マチネの終わりに』

[映画] 平野啓一郎原作『マチネの終わりに』  11月16日 熊谷シネティアラ21

(主人公の二人は、卓越した人物で素晴らしい魅力をもっているが、彼らの恋は人生で3回しか会えなかった、そしてその後、4回目は別れの出会いであり、ニューヨーク・セントラルパークですれ違い、目と目が合って微笑みを交わすだけ)

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 原作の小説が大好きなので、さっそく映画版を見に行った。たいていは小説を映画化すると、つまらない作品になることが多いが、本作は違う。人の人生は、みな孤独で寂しいけれど、人生でたった3回(東京で1回、パリで2回)会うだけで、そして4回目は別れとして出会うだけで、人間は何と美しく輝くのだろう!原作の最後、ニューヨークの蒔野の演奏会が終り、セントラルパークで偶然すれ違う二人は、こう描かれている。「蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。洋子も応じかけたが、今にも崩れそうになる表情を堪(こら)えるだけで精一杯だった。バッグを手に立ち上がると、改めて彼と向かい合った。蒔野は既に、彼女の方に歩き出していた」(p402)。だが、映画では、この「彼女の方に歩き出す」シーンがない。二人は10メートル以上離れており、涙目になった彼女の顔で映画は終わる。二人は体をわずかに動かし始めるが、近づいて抱き合うのではなく、それぞれが未来に向かって前に歩き始めるように私には見えた。二人はもう会うことはないだろう。永遠の別れ。だが、宇宙の時間がそのとき止まり、二人の愛の「永遠の今」が現出する。二人がともに口にした「未来は過去を変える」とは、こういうことなのだ。

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愛がこれほど美しく描かれている作品はめったにない。それは、愛を贈与されるものとして描いているからである。愛の贈与とは、愛する側が愛される側に愛を与えるのではない。その逆である。愛される側が愛する側に愛を贈与するのである。洋子が蒔野に愛を贈与するというのは、蒔野の中に洋子への愛の感情を灯すことである。暗闇の中に小さな灯がともるように、それはまるで恩寵のように贈られる。洋子はそれを意識して行うわけではない。まったく無意識に愛を贈与しているのだ。そして蒔野にとって、洋子から愛が贈与される(=洋子に対して愛を感じる)のは徹底して受動的な経験である。まったく同様のことが、蒔野から愛の贈与を受け取る洋子にも言える。つまり、相思相愛とは、どちらも相手から愛の贈与を受け取るという受動的な感情の生起であり、「愛する」という能動性、他動詞的な要素は一つもない。原作の小説を読んだとき私は、蒔野のマネージャーの早苗が、蒔野の携帯から偽のメールを洋子に打って二人を別れさせるところが、何か不自然に思えた。だが、映画では、まったく不自然に感じない。早苗の蒔野への愛がそうさせたのであり、彼女の自由意志ではなく、牧野が無意識に贈与した愛がそうさせたのだ。洋子も蒔野も自由意志によって主体的に行動しているようには見えない。贈与としての愛を受け取ることにおいて、人間はどこまでも受動的なのだ。蒔野の孤独は非常に深い。長いスランプに陥った彼が演奏家として復活できたのは、彼の演奏を洋子が聴いたから、そしてその喜びを彼女が蒔野に伝えたからである。音楽が二人を結びつけ、音楽が、洋子を通して、蒔野を救済したのだ。そう、音楽もまた恩寵である。映画の全篇に流れる蒔野のギターは、彼の祈りのように、そして運命が贈与する讃美歌のように聞こえる。

 

原作で二度引用されるリルケ『ドゥイノーの悲歌』。映画もこれがすべてを語っている、

「・・・天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、・・・彼らは、きっともう失敗しないでしょう、・・・再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち・・・」(リルケ『ドゥイノーの悲歌』)

 

ニーチェは、芸術は生の最高の肯定、祝福であり、生へ誘惑する偉大な女であると述べている。「芸術における本質的なものは何といっても[人間の]生存の完成状態と充実の産出にある。芸術は、本質的に生存の肯定、祝福、神化である」「芸術は生を可能にする、生へ誘惑する偉大な女であり、生への大きな刺激剤である」(『残された断想』白水社版全集第10巻p541、第11巻p50)。ニーチェに加えて言うならば、彼のいう「生の最高の肯定、祝福」の絶頂に当たるものが「永遠の今」であり、芸術は「生を可能にする偉大な女」であるから、「永遠の今」は「愛の現出」の祝福でもあるだろう。『マチネの終わりに』から、まさしくそれを私は感じた。

(写真下は、中央がマネージャーの早苗)

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『マチネの終わりに』における「永遠の今」は、プログラムノートを読むとよく分かる。監督の西谷弘によれば、最後のセントラルパークの出会いの場面を原作から少し変え、池の所にした。その理由は池の中の「噴水を丸い地球に見立てる」ためである。つまりそこはコスモロジカルな宇宙空間であり、全宇宙の時間が止まり、そこに立ち尽くす二人に「永遠の今」が現出するのだ。

また洋子を演じた石田ゆり子はインタビューでこう語っている。

> ―― 洋子と蒔野は、三度しか会わなかった二人ですね? /・・・人と人が出会う。その関係性でいちばん大事なことは、相手の人生を否定しない。尊重していくこと。どんなに愛しても、その人は自分のものにはならない。自分の人生も人のものにはならない。それぞれ自分の人生を生きていく過程で出会うしかないわけです・・・。そういう意味でこの二人の関係って、せつないけれど理想的で。結ばれない恋かもしれないけど、でも永遠の絆を伴っている。

> ―― そして、ラストの洋子の表情・・・ / 特別な時間ですよね。その時間だけが永遠に残るような時間だろうと思いました。

石田は、『マチネの終わりに』の核心を本当によく理解している。運命すなわち他者に対する二人の関係性の総体が、二人の身体に内面化していること、それが出会いをもたらし、互いに惹かれあって、二人は恋に落ちる。このように運命が贈与する愛は、「永遠の絆を伴い」そして「永遠に残る特別な時間」である、と彼女は明言している。

(写真↓は、大崎で蒔野に会えなかった洋子)

f:id:charis:20191121053119j:plain 1分半の動画がありました。

https://natalie.mu/eiga/gallery/news/354613/media/41727