ラジブ・ジョセフ『タージマハルの衛兵』

[演劇] ラジブ・ジョセフ『タージマハルの衛兵』 新国立劇場・小H 12月21日

(写真は↓、二人の衛兵、左がバーブル(亀田佳明)、右がフマユーン(成河)、二人は性格が非常に違うので、それが面白い)

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演出の小川絵梨子が設定した「ことぜん(個と全)」というシリーズ・テーマに、私はやや違和感を感じていて、10月のゴーリキーどん底』も、どこが「個と全」なのかよく分らなかったのだが、この『タージマハルの衛兵』はたしかに「個と全」そのものを主題にしている。タージマハル城を建設している巨大権力に二人の衛兵が苦しめられる物語で、(1)巨大権力によって個人がとことん分断されること、(2)巨大権力に歯向かう/歯向かわないという二人の性格の違いの面白さを、この作品は描いている。このような状況は現代にきわめて普遍的であり、私は二人を、アウシュビッツ収容所で「淡々と働く」職員に見立てながら観劇していた。休憩なしの95分なのだが、もっと長く感じた。(写真下は、タージマハル城を超える美しい建築が二度と造れないように、王の命令で二万人の建設要員の手を切り落とすという理不尽な作業を終えた二人、後ろには切り落とした手が瓶に盛られている)

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よく出来ている作品だと思うし、俳優の演技もよかったが、二人がしゃべる科白がどうも分りやす過ぎるのではないか、という印象をもった。『ゴドーを待ちながら』と比べると分かるのだが、このような状況に衛兵が二人だけで置かれたら、もっと支離滅裂なことをしゃべるのではないか。フマユーンが「権力には従った方がよい」と考えるのは分かるが、こういうストレートな言い方をするだろうか。もっと間接的で、もってまわった言いかたをするか、あるいはうまく言えないのではないだろうか。「俺たちは何も考えなくていいんだ」と彼は何度か言うが、実際の人間はこんな科白を言うだろうか。恐怖のあまり、考えたくても考えられなくなってしまうのではなかろうか。フマユーンが「俺たちは何も考えなくてもいいんだ」と口に出して言うから、全体が説明的になり、状況の怖さが減ってしまった。バーブルが「自分は美を殺してしまった」と悩むのも、建設要員の殺害と関連づけたのだとすれば、牽強付会のまずい説明ではないだろうか。こういう極限状況では、人間が語る言葉は、極端に即物的か極端に抽象的かの両極に分裂し、適切な抽象度を保てなくなると思うからだ。この城から逃げ出して二人でジャングルの奥で暮らしたい、というのも分りやす過ぎる夢想だ(写真↓)。

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現実を良く見て賢く振る舞うフマユーンが生き残り、現実がよく見えず夢想ばかりしているバーブルが自滅するのは、私は自分がバーブルタイプの人間なのでとても良く分り、バーブルには共感できる。二人の性格の違いもとてもよく造形されているが、しかし考えてみれば、この対照も劇を分りやす過ぎるものにしてしまっているのかもしれない。演劇という虚構の中で不条理をリアルに見せることの難しさについて考えさせられた。

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