美と愛について(2) ― 愛の受動性、ピーパー『愛について』

美と愛について(2) ― 愛の受動性、ピーパー『愛について』

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 たとえば、私たちは生れてきた赤ん坊を愛する。そのとき、私たち親が赤ん坊に愛を与え、贈っているのだろうか? 否、愛を贈るのは赤ん坊の方であり、私たちは愛を贈られるのである

 ドイツのカトリック哲学者ヨゼフ・ピーパー1904~97は、プロテスタント系の哲学者たちがエロスとアガペーを対立的に捉えるのに対して、両者を連続的に捉えた人として知られる。彼の『愛について』(原著1972、稲垣良典訳1974)では、「愛とは、われわれのもとにやってきて、いわば魔法のようにふりかかるものである」(邦訳p26、以下同様)と言われている。つまり、愛は何よりもまず、受動的な経験、受動的な感情なのだ。われわれは「私はあなたを愛するIch liebe dich」と言い、「愛する」という他動詞があるので、愛を、志向的経験、意志、行為などと考えてしまう。しかし、志向や意志や行為の前に、「誰かに魅せられる」という「魔法のようにふりかかる」受動的感情がまず存在するからこそ、そこから「愛する」という志向、意志、行為が生れるのである。ピーパーは次のように言う。

>英語の「be fond of (・・が大好き)」「fondness (愛情)」のfondとは、本来、<魔術にかかった、魔法で変えられた>というほどの意味であり、・・「一種の魅了されたさま」を意味する。ここには、愛というものに含まれている受動的性格が明らかである。愛するとき、われわれは自ら活動し、能動的であるというよりは、むしろ愛にあたいするものによって動かされ、変容せしめられるのではないか、つまり、「始動せしめられる」のではないか? 愛とはなによりも、愛されるものに夢中になること、愛されるものに魅了されることではないのか?・・・これは、ラテン語のaffectioでもって言いあらわされていたことの書き換え、つまり「魅せられてあること」にほかならない。(p22f.)

 愛とは、まずは「愛する」のような能動形ではなく、「相手に魅せられた!」という受動的経験であり、自分の中に相手へのそのような感情が生じることは、自分が意図したことではなく、相手から贈られたもの、相手から恩寵のように与えられたものである。ピーパーは、この「相手に魅せられる」という経験を表わすロシア語についても注意を喚起する。

>ロシア語には、「目で愛するmit den Augen lieben」(=lubovatsja)という言葉がある。つまり、視ることにおいて実現されるところの愛である。あるものがそれあるがゆえにそもそも愛の対象となるところの特質とは、美であるアウグスティヌスにも、「美しいものだけが愛される」「われわれは美しいものだけしか愛しえない」(『告白』『音楽論』)という言葉がある。あるいは、「美とは視るに悦ばしきものなりpulchrum est quod visu placet」という古代の定義もあり、このような同調的な熟視 ― それはいまだ<所有>への意志をまったく含まない ― がなければ、真の愛というものはありえないことになる。(p24)

 (なにかが)美しい!という経験は、まずは目によって、つまり見ることにおいて与えられる。音による美的経験については、またあらためて別に考察したい(おそらく、人と人のシニフィアン[=声]による結びつきが象徴界を形成するというラカンの命題が重要になるだろう)。ここでは、<視ることにおける美によって実現される愛>という原初的な経験に注目しよう。ここで言われているように、「それはいまだ<所有>への意志をまったく含まない」純粋な受動的な感情である。それが、愛されるものへの志向、意志、行為に発展するのは、その次のステップであるが、それらは何よりもまず最初に、このような「魅せられている」という受動的経験がなければ生じないのである。次回は、デカルト『情念論』によって、それを別の角度から検討する。

 

PS : 美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』のパパパ、ギター演奏版とブラスバンド演奏版(各3分)、どちらもとても美しい。

https://www.youtube.com/watch?v=g164MhCY9SI&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=R_Xu5b9j6IM