映画  ウォン・カーウァイ『欲望の翼』

[映画] ウォン・カーウァイ欲望の翼』 恵比寿ガーデンシネマ 1月14日

(写真↓は主人公ヨディ[レスリー・チャン]、そして冒頭、「今夜、夢で会おう」と売り子の少女スー[マギー・チャン]を誘惑するシーン)

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1990年の作だが、1960年の香港に生きる「怒れる若者」を描いた作品。ニコラス・レイ『理由なき反抗』(1955)の香港版と言おうか、レスリー・チャンが美しい。ジェームズ・ディーンに比べると「繊細な弱さ」のようなものがわずかに少ないが、孤独で、内向的で、切れやすく、美しい青年。

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映画の作りが、かなり前衛的だ。瞬間、瞬間を鋭利に切り取ってゆき、現在と現在が分離するので、現在と現在の間の時間は消えてしまい、時間が流れない。音楽はたまに差し挟まれるだけで、カツカツという足音や豪雨の雨脚の音など、自然音が横溢しているので、これも時間を断片化するのに役立っている。空間的に広い光景はほぼ登場しない。香港の石造りの古いアパートの急階段と、息の詰まるような狭い室内、夜の急坂しか登場しないのだ。人がたくさんいる街の光景は一度もない。小さな空間と一緒に切り取られた瞬間瞬間を人は生きているので、人生に長さや広がりはないのだ。だからこそ、それとの対比で、ほぼ例外として登場するヨディの出生地フィリピンのジャングルの光景は、抒情的な音楽と相俟って、夢のような心地がする。冒頭の「今夜、夢で会おう」というナンパ科白もすごいが、翌日、嫌がるスーと、「1分間だけ一緒に腕時計を見詰める」という「1分間友だち」になり、それが2分間になり1時間になり、スーはヨディの恋人になる、という仕立てがいい。誰が考えたのだろう。出典の小説でもあるのか。こんなに狭い時空の瞬間を生きているのに、その瞬間瞬間の生はとても濃い。だから、荒廃した心象風景の中の若者がこのうえなく美しい。

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作中、何度もつぶやかれる「脚のない鳥」がいい。「脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、そして生涯でただ一度地上に降りる。― それが死ぬ時だ」(テネシー・ウィリアムズ『地獄のオルフェウス』)。プログラムノートによれば、監督のウォン・カーウァイは、「自分は俳優に演技をさせない、シナリオを事前に配り俳優が役を理解してしまうと、自己流の解釈で「役に扮しよう」とするからダメだ、そのつどの自分の指示だけでナチュラルに振る舞ってくれればそれでいい」と、ロベール・ブレッソンと同じことを言っている。説明的な要素を極力排して映像だけで見せるのが、映画の王道であり、本作はまさにそれ。だが、一度見ただけでは物語がやや分りにくいことも事実で、特に、最後のギャンブラーとおぼしき男の身支度シーンは、誰なのか、全体とどう関係するのかまったく分らない(笑)。(写真↓は出生地フィリピンに戻ったヨディ)

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2分間の映像がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=yyQu4NaaJMo