美と愛について(3) ― 愛の受動性、デカルト『情念論』

美と愛について(3) ― 愛の受動性、デカルト『情念論』

f:id:charis:20200116101611j:plain

 デカルトは『情念論』(1649)において、「愛amour」について論じている。ここでは「情念les passions」という言葉が使われているが、それは情念そのものが「受動的passif」であるがゆえに付けられた名である。デカルトによれば、まず6つの基本情念が存在する(§69)。それは「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」である。それ以外の情念は6つの基本情念の派生態として説明される。 

 「驚き」というのは、われわれの感覚や知覚に何か新しいものが現れることである。テーブルの上においしそうなケーキを見つければ、「おっ・・・、いいな」と感じる。これが「驚き」と「愛」である。冷蔵庫に腐ったチーズを見つければ、「おっ・・・、嫌だな」と感じる。これが「驚き」と「憎しみ」である。つぎに、「そのケーキを食べよう」と感じたり、「そのチーズを捨てよう」と感じるのが「欲望」である。そしてそのケーキを食べて、美味しければ「喜び」が、不味ければ「悲しみ」を感じる。あるいは、チーズを捨てて冷蔵庫がきれいになれば「喜び」を、チーズが冷蔵庫にこびりついて取れなければ「悲しみ」を感じる。このように、われわれを行為に導く端緒は感情であり、そして行為とは、何らかのよきもの(=善)を得て、わるいもの(=悪)を退けることである。そして行為が達成される満足/達成されない不満足が、「喜び」/「悲しみ」である。このように、われわれの生活はすべて、感情 → 行為 → 感情 というサイクルから成り立っている。行為において、AにしようかBにしようかと迷い、どちらがよいかを考えてから選択することはもちろんある。この場合は思考や知性も働いているが、その場合でも最終的には、Aの方が「いいな」とか、Bは「嫌だな」と感じるからそちらを選ぶのだから、やはり感情が行為を導いている。人に対して感じる「愛」も、まずは「驚き」の次にくる感情であり、デカルトは次のように述べている(野田又夫訳、谷川多佳子訳より)。

>さて愛にしても憎しみにしても、その対象が・・われわれの本性に適合しているとか、あるいはそれに反しているとか、われわれの内的感覚または理性が判断するものを、それぞれ「善」または「悪」と呼んでおり、われわれの外的感覚によってわれわれの本性に対する適不適が示されるものを、「美」または「醜」と呼んでいる。そしてその場合、外的感覚とは主として視覚をさすのであって、視覚だけで他の感覚のすべてを合せたもの以上の重要性をもつ。以上のことから、二種の愛が生じる。善いものへの愛と、美しいものへの愛である。後者を「快agrément」と名づけることができる。前者の愛とも、よく愛の名を与えられる「欲望」とも、混同しないためである。 (§85)

「快」は、好ましいものの享受を、人間に属する善のうち最大の善として示すために自然が特に設けたものだ。ゆえに、ひとはこれを享受したいととても熱く欲する。・・・ひとはある年齢とある時期に達すると、自分を不完全なものと見なし、自分は一つの全体の半分にすぎず、異性のもう一人が残りの半分であらねばならないかのごとく考える。こうして自然によって、このあと半分の獲得が、ありとあらゆる善のうちで最大のものとして漠然と示される。ひとは異性の人たちを多数見るからといって、同時にその多くを望んだりはしない。・・・むしろ、ある一人の人間において、同じときに他の人において認めるものよりいっそう自分の好む何かを認めると、精神はそのただ一人の人間に対して、所有しうる最大の善として追求しようとする。・・・このように快から生まれるこの傾向、この欲望は、前述の愛の情念よりもっとふつうに、の名で呼ばれている。この恋はまた、いっそう不可思議な効果を持ち、物語作者や詩人たちに主要な題材を供している。(§90)

 ピーパーと同じく、デカルトは「美しいものへの愛」は主として視覚から生じると述べており、それを「快」と呼んでいる。この「快agrément」という語は「魅力」「愛嬌」などの意味もある。そして、われわれは第二次性徴の年頃になると、異性のうちにこの「美」を発見し、それをこの世で最大の善として激しく欲し、追求する。デカルトは、「美」と「愛」との根源的な結びつきを、このように明確に語っている。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』の、グロッケンシュピールが鳴って、追っ手たちが踊り出す場面、音楽は、和解と愛をもたらす恩寵、スカラ座2016(3分間)。

https://www.youtube.com/watch?v=DadCneF5dLk