美と愛について(4) ― 愛の受動性、トマス『神学大全』

美と愛について(4) ― 愛の受動性、トマス『神学大全

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 前回、デカルトによれば、愛の感情のうち、美しいものへの愛は「快」であり、われわれは美しい異性に「恋をして」、それを激しく求めるとされた。情念(感情)passionは受動的passiveであり、それとほぼ同じことを、14世紀の哲学者トマス・アクイナスも、『神学大全』第2部第22~48問題、「情念」において述べている。デカルトでは、愛には二種類あって、それは、善いものへの愛と、美しいものへの愛であった。トマスでは、善と美は同じものであって、善いものへの愛と美しいものへの愛は、同じことになる。トマスの主張を、順に見てゆこう。『神学大全』第10冊、森啓訳、創文社より引用。

 >望ましいものによって欲求が受ける最初の変化は「愛amor」と呼ばれる(これは、望ましいものが欲求の気に入ること・望ましいものへの好感にほかならない)。そして、この好感から、引き続いて、その望ましいものへ向かう運動が生じるのであって、これが「欲望」なのである。そして最後に、この運動が静止に至るならば、それが「喜び」である。このように、愛は、望ましいものによる欲求の一定の変化のうちに成立するのだから、したがって、愛が情念・受動passioであることは明らかである。(p59)

  デカルト『情念論』とほとんど同じことが述べられている。すなわち、欲求つまり外部へ向かう心の動きが、何か変化を受けて、「いいな!」と感じるのが「愛」である。次に、その感情をもとに、その望ましいものへの「欲望」が生じ、その「欲望」が満足されれば「喜び」の感情が得られる。このような運動の出発点は、まさに受動・情念として与えられる「愛」の感情なのである。

 >「愛」には何らか受動ということが含意されている(愛が感覚的な欲求のうちにあるかぎりにおいては、特にそうである)。(p63)

 >「愛」は欲求的な能力potentia appetitiveに属する。だがこれは、受動的な力vis passivaなのである。(p69)

  トマスは、しかしデカルト違って、愛に二種類あるとは言わず、さらに踏み込んで、善いものへの愛と美しいのものへの愛は、抽象の水準が違うだけで、それが愛という点では同じであると言う。

 >「美pulchrum」は「善bonumと同じであり、ただ概念ratioにおいて相違しているだけである。つまり、善は「(人間だけではなく)万物が欲求するところのもの」であるから、「欲求が善のうちに静止する」という事態は、とりも直さず「善」という概念[の意味に]由来している。しかし、「美」の概念には、「(人間の)欲求が美しいものの眺めaspectusないし認識のうちに静止する」ということが属している。つまり[人間の]理性のしもべとして働く視覚および聴覚が、とりわけ美に関わりをもつのもそのためであって、事実われわれは、「美しい光景」とか「美しい音」とか言っている。けれども視覚と聴覚以外の感覚対象にあっては、「美しさpulchritudo」という名称を用いることはないのであって、実際、「美しい味」とか「美しい匂い」などとは言わない。つまり、「美」とは「善」のうえに認識的な力へのある秩序を加えたものである。かくして、端的に欲求の気に入るところのものが「善」といわれるのに対して、それを把捉すること自体が気持いいものが「美」といわれるのである。(p70)

  このように「美」とは、人間が対象を見たり聞いたりすることによって生じる「快さ」「好感」「気持ちいい」という感情である。そして、美が愛されるものであることは、善が愛されるものであるという普遍的な事態が、人間の視覚や聴覚において生じることであると説明される。

  これまで見てきたように、ピーパーは「愛とは、われわれのもとにやってきて、いわば魔法のようにふりかかるものである」と、「目によって魅せられる」受動性について述べた。デカルトは「愛という情念・受動には、善いものへの愛と美しいものへの愛があり、後者は「快」と呼ばれる」と、はっきり第二次性徴のもたらすエロスについて述べていた。そしてトマスは、善いものへの愛と美しいものへの愛は抽象のレベルが違うだけで、後者は人間の視覚と聴覚に生じる「快さ」であると述べた。三者はほぼ同じことを述べており、愛とは、まず何よりも、何かを美しいと感じること、それに魅せられる感情を意味している。

  さて、次回からは少し視点を変えて、その「魔法のようにふりかかる愛の感情」がどのように「われわれのもとにやってくる」のかを、考察しよう。その前に一点だけ注意しておきたいのは、美しいものを愛することにエロスの本質があることは、男女とも同じだということである。「美しいな! 可愛いな! 素敵だな!」と心のときめきを覚え、相手に萌えるのは、女性も同じである。映画『理由なき反抗』(1955)のジェームズ・ディーン、香港映画『欲望の翼』(1990)のレスリー・チャンなどは非常に美しく、女性は、彼らの美しさに心がときめき、萌えるだろう。たしかに女性と男性では、その「美しさ」の在り方に違いはあるが、しかしどちらも美しさに萌えることに変わりはない。この点はあらためて考察するが、今はとりあえず、エロスが愛の核心であり、それは相手から贈られる受動的な感情であることを確認しよう。

  次回から、数多くの文学や芸術作品に表現されている「恋に陥る瞬間」を検討したい。まず手始めに、シェイクスピアロミオとジュリエット』、ゲーテ『ヴェㇽテル』、マン『すげかえられた首』『魔の山』、フロベール感情教育』などから、「魔法のようにふりかかる愛の感情」を検討する。

  PS :美と愛が最高に一体となったシーン、南アフリカ版の非常に珍しい『魔笛』、2008年の日本公演を私は観ました。オケもVlもなく、木琴や土俗の打楽器で演奏しますが、本当に素晴らしい『魔笛』でした。私はこの上演で初めて「ザラストロ」とは何者かを理解できました↓(5分強)。

https://www.youtube.com/watch?v=w-rvlPK15nw

この上演については、森岡美穂氏による解説があります。

http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/africa-now/no81/top8.html