唐十郎 『少女仮面』

[演劇]  唐十郎『少女仮面』 シアター・トラム 1月30日

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(写真↑は、左から、老婆(大西多摩惠)、宝塚の伝説的な男装スター春日野八千代(若村麻由美)、そして宝塚志望の少女・貝(木崎ゆりあ)、彼女たちの肉体は仮象であり、女優として成功すればするほど自分の肉体を失うというのが主題、新宿地下の怪しげな喫茶店の名前が「肉体」、チープでいい)

 唐十郎は『秘密の花園』しか見たことがなかったが、『少女仮面』は本当にすばらしい作品だ。いかにもチープなアングラ劇の仕立てでありながら、きわめて芸術性が高く、シュールな感じに溢れている。なるほど唐十郎は天才だ。本作は日本演劇が創作した古典と言えるだろう。杉原邦生の優れた演出、主人公を演じた若村麻由美の名演に負うとはいえ、戯曲そのものが傑出している。1969年初演の白石加代子、1971年の李礼仙が演じた舞台はどんなに見事だったろうと想像してしまう。そして、吉行和子が民藝を退団して初演に少女・貝を演じ、また、本作が岸田戯曲賞を受賞したことに対して、芥川比呂志宇野重吉が激怒したことからも、この作品の衝撃度が分る。(春日野八千代を演じる若村麻由美↓、そして初演の吉行和子(左)と白石加代子)

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 『少女仮面』という劇を一言でいえば、肉体の不条理性から美が立ち上がる、といえるだろう。とても猥雑なものの中から、高貴な美が輝き出るのだ。「少女歌劇」宝塚の伝説的な男装ヒロインだった春日野八千代が主人公で、彼女がスターとして成功すればするほど、自分の本来の肉体を失ってしまうというのが、タイトル「少女仮面」の意味するところ。そして今回気が付いたのだが、考えてみれば、宝塚の男装ヒロインだけでなく、『十二夜』のヴァイオラも、『お気に召すまま』のロザリンドも、『フィガロの結婚』のケルビーノも、すべて男装少女だから、まさに肉体の不条理性から美が立ち上がる作品だったわけだ(笑)。もし『少女仮面』がきわめて普遍性を持つとすれば、こうしたやや倒錯的な美の輝きにあるだろう。登場する人形付きの腹話術師がとてもいい。人間が実体なのか、人形が実体なのか、転倒的な関係になってしまうのだ。そして喫茶店のボーイたちの肉体もどこか倒錯的だ↓。 

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新宿の地下の怪しい喫茶店には、場末感がただよい、猥雑でいかがわしい雰囲気に溢れて、登場人物も、やさぐれて不良っぽい。おそらく、場末のチープなストリップ劇場が、唐十郎の原風景なのかもしれない。しかし本作では、春日野が満州公演に行き、満州にいる甘粕大尉(関東大震災大杉栄伊藤野枝を虐殺した)と恋に陥るとか、『嵐が丘』のヒースクリフに春日野をなぞらえ、キャサリンととともに「肉体を失った亡霊」として現れるというシュールな作りが成功している。もっとも制限された時空に置かれている役者の肉体が(=一幕一場が本来の演劇)、時空を超えることは、本来あってはならないことなのだが、肉体を失うことが主題の本作では、その不条理感が実に適切なのだ。肉体の不条理性から美が立ち上がる『少女仮面』で、私が思い出したのは、ニーチェ力への意志』の一節である。「性欲、陶酔、残酷という三つの要素が、人間の最古の祝祭の歓喜に属している。・・・そして、動物的快感や欲望のこうしたきわめて微妙なニュアンスの混交が美的状態なのである。・・・<美>とはそれゆえ芸術家にとってはあらゆる階層秩序の外にある」(§801、803)。あと、何度か流れるメリー・ポプキン「悲しき天使Those were the days my friend」がとてもいい。音楽はこれしかありえないという感じだ。唐十郎はレコードをかけっ放しにして2日間で『少女仮面』を一気に書いた。(写真↓は、甘粕大尉、そして老婆と少女・貝、春日野は、(貝もその一員である)観客によって肉体が消費され消尽してゆく、まるでストリップショーの踊り子のように。貝も、今は肉体を搾取する側だが宝塚スターになれば搾取される側になるだろう)

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