美と愛について(8) ― 恋に陥る瞬間、トーマス・マン『すげかえられた首』

美と愛について(8) ― 恋に陥る瞬間、トーマス・マン『すげかえられた首』

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 『魔の山』で知られるトーマス・マンに、『すげかられた首Die vertauschten Köpfe』(1940)というインドの古伝説に取材した小説がある。ナンダとシュリーダマンという二人の若い青年と、シーターという美しい娘をめぐる物語である。ある日、二人の青年は山奥にある神聖な沐浴場を訪れた。そこで沐浴し、神に祈りをささげようというのである。秘境でひと気のないはずの沐浴場に着くと、驚いたことに、一人の若い娘がそこで沐浴していた。二人は気づかれないように物陰に身を隠し、娘の沐浴を眺めているうちに、そのあまりの美しさに、魔法にかけられたように彼女に恋してしまった。その場面を、岸美光訳から引用しよう(光文社古典新訳文庫、太字は植村)。

 

>若い娘は、沐浴の祈りを捧げようとしているところだった。娘はサリーと胴衣を、水に降りる階段の上に脱ぎ捨て、丸裸でそこに立っていた。首にはわずかな鎖を飾り、ゆらゆらと揺れる耳輪をつけ、たくさんの結び目を作った髪に白いリボンを巻いているだけである[上の挿絵↑]。その体の愛らしさは眩いばかりで、夢まぼろし(マーヤー)からできているようだった。この上もなく魅力的な肌の色は暗すぎず白すぎず、むしろ金色に輝く鉱石のようで、ブラフマー[=ヒンドゥ教の最高神]の思うまま輝かしく作られていた。加えて、幼さを残す肩は甘美の極み、嬉しげにカーブを描く腰は腹の前面の広がりを生み、胸は処女の固さを保って蕾のよう、尻は誇らしく張出し、上に向かって匂やかに軽みを増しながら、ほっそりした華奢な背中に続き、娘が蔓草(つるくさ)のような腕を上げたり、首筋で両手を組んだりすると、そこに柔らかなくぼみが現れ、また繊細な腋の下が暗く開かれるのであった。これほどにすべてが見事であるのだが・・・。(p166f.)

 

ここで、「娘が蔓草(つるくさ)のような腕を上げたり、首筋で両手を組んだりすると、そこに柔らかなくぼみが現れ、また繊細な腋の下が暗く開かれる」とあることに注意しよう。女性の胸や腰にエロスを感じるというのは普通のことだが、ここで描写されているのは、女性が自分の髪をかきあげたり、首の後ろに触れたりする時に、彼女の腕が上がり、肩がむき出しになる、その美しさである。女性のこの仕草は、実は、トーマス・マン自身が女性にもっともエロスを感じ、魔法のように魅せられる瞬間なのである。というのは、彼女が首の後ろに触れるため腕を上げて肩までむき出しになる瞬間は、次回に見る『魔の山』のショーシャ夫人や、『トニオ・クレーゲル』の美少女インゲボルク・ホルムにおいても、まったく同様に記述される決定的なシーンであり、主人公の男性が恋に陥る瞬間だからである。『すげかえられた首』をさらに続けよう。

 

>娘は、(祈りが終ると川に入って)水浴を楽しみ、そうしたことをやり尽くすと、水滴をたらしながら、冷えた美しい体で乾いた所に上がってきた。しかしこの場所で二人の友人に与えられた幸運は、これで終わらなかった。水浴の後、身を清めた娘は階段に腰を下ろし、日の光を浴びて体を乾かしたのだが、その際、誰もいないと思いこんで、その体の優美な自然が求めるままに、気持ちよくあの姿勢、この姿勢をとり、それもやり尽くすと、ゆっくり服を着て、川の階段を逆に上がって、聖堂の方に姿を消した。(p171)

 

腕を上げて髪をかきあげる仕草もそうだが、女性のエロスがもっとも美しく輝くのは、身体が静止しているときではなく、さまざまな姿勢を取るその動態的な様相である。青年の一人は、過日、ある祭りの儀式で、その娘をブランコに乗せて限りなく高く漕がせるブランコ漕ぎ手を務めていた。

 

>この前の春、おれがあの村に行ったとき、あの娘は太陽の処女に選ばれていた。おれはお日様の手伝いをして、あの娘を揺すってやった。天まで届けと高く、上からあの娘の悲鳴がほとんど聞こえないくらいにね。どのみちみんなの金切り声でかき消されたんだけど。(ナンダ、p172) 

>おまえはついていたね。・・あの娘がぶらんこに乗って、空に舞い上がる様が目に浮かぶよ。ぼくの想像の中の飛ぶ姿が、ぼくらがさっき見た立ち姿と混じり合う、直立して祈り、敬虔に身を屈めたあの姿が。(シュリーダマン、同)

 

美しい娘のエロスが輝くのは、ぶらんこに乗って空に舞い上がったり、金切り声で叫んだり、直立して祈ったり、敬虔に身を屈めたりする、身体の動態的な様相においてである。二人の青年は、彼女のエロスの輝きに深く感動した。だが、このエロスの体験について、二人の青年は異なった受け止め方をする。18歳のナンダは、いけないものを見てしまったように感じ、こう語る。

 

>ああいう美しい姿は心を捉えて離さない、と言われるよね。でもどうして捉えて離さないんだろう。それは、あの姿がおれたちを望みと喜びの世界に縛りつけ、それを見た者をいっそう深く輪廻(サンサーラ)の呪縛に巻き込むからだ。だから造られた生き物であるおれたちから澄んだ意識が消えていく、ちょうど息が絶えるようにね。それがあの姿の作用なのだ、[娘が]意図したことではなくてもね。・・・美しい姿は与えられたものだ、望んで受け取ったものではない、だから祈る必要もない、なんて勝手な言いぐさだよ。<与えられた>と<[望んで]受け取った>との間にほんとの区別なんてない。あの娘もそれがわかっているから、きっと、自分が人の心を捉えてしまうことの許しを求めて祈るんだろう。(p173)

 

ナンダにとって、自分が娘シーターのエロスに魅せられることは、「ちょうど息が絶えるように、澄んだ意識が消えてゆき、輪廻の呪縛に巻き込まれる」こと、つまり死へといざなわれることである。シーターも自分のエロスがそのような力を持つことを知っており、だから許しを求めて祈っているのだ、と彼は考える。しかし21歳のシュリーダマンは、それに反論して言う。

 

>・・・ぼくらは美しいものの実体を尋ねもせずにその姿をただ楽しんでいる時に、やはりその美しいものに対して責任を負っているのだ。特に、ぼくらだけが一方的に見ていて相手から見られていない時には、特に深く、その責任を負っている(p175)。・・・なにしろ美には美の現れる姿に対して義務があるのだから。あの娘は美の義務をはたすことによって、もしかしたら、ただ人の気持ちをかき立て、自分の魂を探らせようとしているだけなのかもしれない(p176)。・・・どうしてお前[=ナンダ]は、あの美しい姿を非難することができたんだろう。あの娘の美しさのせいで、被造物である人間たちが否も応もなく呪縛され、意識の息が消えていく、なんてね。それは、ものごとを罰すべき一面性でしか見ていないということだし、真実で完全な存在がこの上なく甘美な姿で顕われたのに、それにすっかり心を満たされてはいないということを暴露するものだよ。というのは、あの娘はすべてであって、ただ単にそれだけのものではないからだ。生と死であり、妄想と知恵であり、呪縛者であり解放者なのだ。・・・つまり、あの娘がぼくらに与える陶酔は、同時に感激でもあって、これはぼくらを真理と自由に導くものだ。なぜなら、縛るものは同時に解き放つものでもあって、感覚の美と精神を一つに結ぶものは感激であるということ、これこそがその秘密なのだ。(p178f.)

 

ナンダとシュリーダマンの対話は、エロスが惹起する倫理問題の核心に迫っている。私はもちろんシュリーダマンが正しいと思うが、しかしプロテスタント神学者などは、エロスをそれ自体として善いものとは認めない。エロスとアガペーの切断と連続は、美と愛をめぐる問題の核心なので、これからも繰返し考えてゆきたい。次回は、トーマス・マンの『魔の山』を扱う。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、前回と同じく『フィガロの結婚』の第2幕、ケルビーノの「着せ替え」シーン、ルチア・ポップのスザンナとG.ヤノヴィッツの伯爵夫人(3分)。こちらは前回のザルツブルク音楽祭ほどエロくない。

https://www.youtube.com/watch?v=v5_uaPyj6E8