イプセン 『亡霊たち』

[演劇] イプセン『亡霊たち』 駒場アゴラ劇場 2月22日

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翻訳・演出は毛利三彌。この新訳では、従来は『Gengangere幽霊』と訳されていたのが『亡霊たち』と変った。役者たちが非常に上手い。舞台表現の水準は高く、BGMにシャンソンが掛かる以外はリアリズムに徹した演出で、原作を忠実に上演すればこうなるだろうと思われる舞台。原作のもつ緊迫感がよく表現されていた。イプセンの作品は見終わった後どれも後味が悪いが、『亡霊たち』も同様だ。父親のアルヴィング氏が梅毒で死に、息子オスヴァルも梅毒になり、夫の事業を支え、病気を看病し、「良い妻」を演じてきたアルヴィング夫人は、本当は嫌で嫌で仕方がなく、もっと自由に恋愛したい女だった。アルヴィング氏が女中に生ませた私生児のレギーネは、とても美しい娘になったが、彼女も自由に恋愛したい女なので、アルヴィング氏の息子が病気だと分かった瞬間に、看病がいやでアルヴィング家を逃げ出してしまう。「良い妻であれ」とひたすらキリスト教道徳を押し付けていたマンデルス牧師も逃げ出し、結局、アルヴィング夫人は梅毒の息子と二人で暗い家に取り残され、息子は早くも梅毒の発作らしきものを起こすという絶望的な状況で終幕。

 

とても辛い話で、見終わってカタルシスもない悲劇なのだが、『亡霊たち』は、やはり演劇として傑作だと思う。私の理解では、キルケゴールの言う「美的生き方」と「倫理的生き方」の厳しい対立が、ほとんど純粋に前景化されている。古いキリスト教道徳の立場から、「結婚の神聖さ」を説き、自由恋愛を厳しく批判するマンデルス牧師は、「倫理的生き方」そのものである。それに対して、自由に恋愛をしたいアルヴィング夫人とレギーネ、そして息子のオスヴァルは、いわば「美的生き方」派だが、夫人と息子は、実際には美的生き方は出来ずに苦悩の中で死んでゆく。逃げ出したレギーネはどうなるか分からないが、際立って官能的な美女なので、たくさん恋愛するだろう。だが、幸福な結婚ができるかどうは分らない。でもイプセンの主旨は、「倫理的生き方」を説くマンデルス牧師と古いキリスト教道徳を批判することにあり、だからこそ、『亡霊たち』は初演後、「反道徳的、反社会的」と激しい批判を浴び、戯曲も売れなくなった。

 

本人はとぼけているが、イプセンキルケゴールの影響を大きく受けていることは明らかで(原千代海『イプセン:生涯と作品』p29、140)、私の関心はむしろ、この、とても暗い『亡霊たち』という作品が、演劇として、芸術として成功しているのかどうかにある。『野鴨』『ヘッダ・ガブラー』などとも共通する後味の悪さの問題でもあるが、イプセンは基本的に、ニーチェの言う「デカダンス芸術家、ペシミズム芸術家」なのだと思う。ニーチェは、ペシミズム宗教・道徳とペシミズム芸術を次のように対立させる。「芸術家のペシミズムは、人間の腐敗や生存の謎で苦悩する道徳的・宗教的ペシミズムの反対である。後者はあくまで解決を、少なくとも解決への希望を欲する。苦悩し、病める者は、いつの時代にも、生き耐えるためには、心も浮き浮きする幻影(=神の救済による「浄福」)を必要とした。・・・デカダンス芸術家もこれと似通っているが[実は違う]、彼らは根本的において生へとニヒリズム的に態度をとっており、形式の美のうちへと、自然がそこで完全となったところの、自然がそこでは無差別に偉大で美しいところの選り抜きの事物のうちへと逃れ去る」(『力への意志』§852)。つまり、道徳的・宗教的ペシミズムを代表するのがマンデルス牧師であり、それを厳しく批判し、美しい女であるヘッダ・ガブラーやレギーネという美的形象へと「逃れ去る」のがイプセンである。たとえばヘッダには実在のモデルがあり(イプセンを崇拝する若い美女)、イプセンは彼女を「美しい野鳥」と評した。まさにニーチェの言う「自然が創った選り抜きの」美的形象である。イプセンの作品は、デカダンス芸術、ペシミズム芸術として大成功している。

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