映画 『三島由紀夫VS東大全共闘』

[映画] 『三島由紀夫VS東大全共闘』  TOHOシネマズ日本橋 3月27日

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この討論会は、後に出た本で読んだので概略は知っていたが、今回、実際の映像の他に、当事者たちの今のインタビューが加わったのが非常によかった。当時、三島と共に行動した「盾の会」の学生たちは、現在は、その活動をとても辛い経験として受け止めており、インタビュー自体を最初は嫌がったそうだ。それに対して、討論を行った全共闘の学生たちの、現在における受け止め方はさまざまだが、「敗北ではない」という点が共通している。私は、三島が一年半後の市ヶ谷での自決に相当することを、明瞭かつ正確に語っているのに驚かされた。彼は、「暴力の合法的行使を自分は好きではない。自分は、共産主義者たちと非合法の暴力で闘うつもりだ。当然、警察に捕まるだろうから、その前に自決する」と、サラリと言っている。もう一つ驚いたのは、こんなにも重要な哲学の議論が行われていたことである。昔、本で読んだときにはそれが分らなかった。それは「解放区」の本質をめぐる議論で、全共闘の学生で当時から前衛劇団を主宰していた芥正彦との議論である。(写真↓、赤ちゃんを肩車しているのが芥)

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三島は、解放区を作り、そこを拠点として革命に進むには、解放区は時間的に持続しなければならないだろう、と言う。それに対して、芥は、持続は要らない、解放区は空間的な存在であり、時間的には持続しない、と答える。これだけ聞くと、ぶっ飛んだ話に聞こえるかもしれないが、ここで問われている真のテーマは、人間の利害対立を実力(暴力)を行使しないで調整するためには、現実的な空間の中に儀式的空間が必要であり、劇場的・祝祭的空間が不可欠であって、それを介してのみ、暴力による決着から言論による「政治」的解決への道が開ける、ということだ。これはローマ法学者の木庭顕が、ホメロスギリシア悲劇、ローマ喜劇が、デモクラシー政治や法の支配に移行するために不可欠だったと主張しているのと、呼応している(『誰のために法は生まれた』)。つまり芥正彦は、駒場キャンパスの解放区の本質は、劇場であり、祝祭空間であって、非持続的空間なのだ、と言っている。芥は三島との討論に最後まで参加せず、議論を打ち切って少し早めに帰ってしまったが、これもこの討論会自体の時間的非持続性をよく表している。(写真↓の、三島の左隣りは学生の小坂修平、彼は天皇論を提起したが、逆に三島に挑発された)

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解放区の劇場的性格、祝祭空間性は、全共闘運動の根本志向性とも一致している。つまり、彼らは、自民党共産党社会党などの、妥協的でヌルくて堕落した政治、そして欺瞞的な戦後民主主義丸山真男に代表される知識人たちに何よりも反発しており、人間存在のもっと美しい純粋な在り方を希求しているのだ。だからこそ、人間の自由が解放される美的な祝祭空間=解放区を必要としている。三島が「人間宣言」をした昭和天皇を非難し、アメリカに従属した欺瞞的な自民党支配を嫌悪しているのと、よく似ている。三島由紀夫も東大全共闘もともに、純粋で美しいものを求め、堕落して不潔な人間の在り方を嫌っているのだ。そしてこれは、言論によるデモクラシー政治が成立するための儀式的空間の必要性とも深く関わる重要なテーマだと思う。

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 途中で客席から「この会は三島を殴るんじゃなかったのか!」という声が上がり、芥が壇上から、「そう思うならお前壇上へ出てこい!」と一喝し、その学生が登壇して議論になった(写真↑、左端の学生、右へ、芥、三島)。これはこの討論会の主題と直結している。暴力による決着と言葉による決着との緊張関係こそが、この討論会のテーマだから。たとえこの討論会が、瞬発的に垣間見られるだけの稀有の瞬間だったとしても、この討論会自体が、まぎれもなく、解放区、劇場、祝祭空間そのものなのだ。

 

私はゴダールの映画『中国女』1967を思い出した。それは大学闘争以前なのに、バリケードで封鎖された大学の解放区=祝祭空間を描いている。何という想像力! 劇場とは、人間と人間が敵意をもって恫喝・牽制し合う(ホッブズ)のではなく、スピノザが言うように、想像力によって人間と人間が結びつき、連帯しうる、儀式的・祝祭空間なのである。

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