[映画] ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

[映画]  ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 Movixさいたま 6月23日

(写真↓、下は冒頭、ジョーは、原稿が出版社に売れて大喜びで街を疾走する、原作とは時間順序が違い、未来と過去が繰返し交錯する凝った構成) 

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私はオルコットの原作は未読だが、映画版は、(1)キャサリン・ヘプバーンがジョーを演じた1933年の作品と、(2)エリザベス・テイラーがエイミーを演じた1949年の作品を見た。本作は、それらよりも凝った作りだが、とてもいい。作家志望の次女ジョーを原作者ルイザ・オルコットと重ね、「書く女」をクローズアップしたところに特徴がある。そして、長女のメグも四女のエイミーも、とても個性的に描かれていて、自由に生きたいと願う少女たちが生彩豊かに輝いている。みな、自分の理想をもっており、それに向かって一生懸命生きている。監督のグレタ・ガーウィクは、映画『フランシス・ハ』の主演女優で、バレエ・ダンサーを夢見て生きる女の子の話だったが、そういう女の子として『若草物語』の少女たちも捉えられている。アメリカン・ドリームというか、彼女たちは上昇志向も強く、たくましい。物語の舞台であり、オルコットが過ごしたマサチューセッツ州コンコードは、エマソンやソローが活動した同じ町。事実、エマソンもソローもオルコットの父と懇意で、ルイザ・オルコットは教師ソローに習ったこともあるそうだ。自由に憧れる少女たちという『若草物語』の基調と、エマソンの理想主義やソローの自由に憧れる思想とは相通じるところがあるのだろう。(写真下はエイミー、絵の得意な彼女は算数の時間に先生の似顔絵を書き、叱られる、彼女は画家志望でヨーロッパでも画を学ぶ)

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物語は少女たちの恋愛と結婚を柱にしているが、私は、それ以上に、家族愛がこの作品の核心であるように思われた。アメリカでは、たとえば大統領選挙の候補者たちは、必ず配偶者と子供たちと一緒に登場して、自分たちをアピールする。これは、アメリカ人には(どこまで一般化できるかはともかく)、家族に対する特別の思い入れがあるのではないか。それはアメリカン・イデオロギーの一部でもあり、『若草物語』もまた、何よりも家族愛を讃えた作品であるように感じられる。ジェイン・オースティン、シャーロット・ブロンデ、イプセンストリンドベリ、チェホフなどの作品では、個人としての女性の恋愛、結婚と、家族愛とは、必ずしも予定調和していない。むしろ両者の葛藤が描かれているように感じるので、その意味では『若草物語』は特異なのではないだろうか。そこでは、四人の姉妹と父母とがこのうえなく美しい愛の絆で結ばれている。それはとても感動的なのだが、しかし私には、エイミーが隣家の青年ローリーと結婚する必然性を、ローリーが美青年であるという以外にはあまり感じられなかった。そして、主人公のジョーがベア教授と結婚する必然性も、まったく分らない。ヨーロッパでエイミーがなぜローリーを好きになったのか、その過程は描かれていないし、何よりも、「私は結婚しない」と言っていたジョーがなぜベア教授と結婚するまでになるのか、それが分らない。面白いことに、この映画では、おそらく原作とは違って(?)、作家になるジョーが作品の内容を、編集者に言われて訂正する場面がある。編集者に、「いや、ヒロインは結婚するのじゃなきゃ、小説は売れないよ」と言われ、「じゃ、しょうがない、結婚させるか」と、ヒロインが結婚するように訂正する。これは、オルコット自身の手紙に、「編集者に言われたので、結婚させるように訂正した」という文言が残っているらしい(プログラム・ノート)。ルイザ・オルコット自身は生涯独身だったから、その分身であるジョーが結婚するのは、やはりオルコットの本意ではなかったのではないか。だから『若草物語』は、少女たちの恋愛と結婚が、どこか中途半端なものになっていると思う。(写真下はローリーから求愛され、拒否するジョー、そして実家に帰りベスの看病をするうちに「寂しくなってしまい」、愛に飢えるジョー)

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2分半の動画がありました↓。

https://www.youtube.com/watch?v=GeWtnhy-RwI