[美術展] 超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 渋谷・Bunkamura 6月28日
(画像↓は、藤田貴也「EIKO-01」、完全な画像が見つからなかったので、二枚引用するが、原画はほぼ全身像、私は、少女がこんなに美しく描かれた絵を見たことがないので、立ち尽くしてしまった、たぶん美しさの秘密は姿勢と表情と二本の手の動きにある、以下、画像はホキ美術館のもの)
私は絵画に疎いので、現代でも、ひたすら写実を追究している画家がいることを知らなかった。中山忠彦も、野田弘志も、森本草介も、ホキ美術館も知らなかった。今回のBunkamuraの展示はすべてホキ美術館のものなので、今度は直接にホキ美術館に行ってみたい。下の画像は↓、綿抜亮「二つの動作」、この少女の美しさも姿勢と表情と二本の手の動きにある。
私が写実の絵を見ながら思い出したのは、アリストテレス『詩学』の「人はすべて再現すること(ミメーシス)を喜ぶ」という言葉である。これは芸術の起源をズバリ言い現わしたもので、ラスコーの壁画、縄文時代の土偶、そしてホキ美術館の写実絵画まで通底する、美学の最高の根本命題だと思う。なぜ、私たちが「再現(ミメーシス)を喜ぶ」のかと言えば、私たちの生が有限だからである。人はこの世に一度しか生まれてこない。人生に反復はない(来世などもちろん存在しない)。人生は短いが、そこでさまざまなものに出会う。そしてただちに別れなければならない。だから、自分が人生で出会ったものはすべて、その存在そのものが愛おしい。その愛おしさの感情を、芸術における再現を通じて、我々は繰返し味わっているのだ。現実には不可能な生の反復を、我々は芸術においてかろうじて実現する。これがアリストテレスのいう「再現」であり、「人生は短く、芸術は永い」とはそういう意味である。(下の画像は↓、生島浩「5:55」、モデルは近所の公民館で働いている女性、作者はこの絵が気に入ったので、彼女をモデルにもう一度描かせてほしいと言ったら断られたというのが面白い、彼女はこの絵が気に入らなかったのだろうか)
写実の絵というのは、特に対象が人間の場合、時間・空間的にきわめて限定された存在である人間の、その時、その場所の時空的存在性がきわめて強く表現されていると思う(その点では写真はもちろんだが)。下の画像は↓、若手の画家、三重野慶の「信じてる」。彼女は恋をしているのだろう、「あなたの愛を、信じてる!」と、一瞬に見せた表情。
もちろん、写実から遠いように見える現代アートも、写実の要素が強い写真も、そして彫刻も、すべて、存在するものへの愛おしさからそれを再現している、という点では同じである。対象への愛は、まずは作者のものだが、再現された作品によって、その愛の感情が鑑賞者にも再現される。これが芸術だと思う。(画像下は↓、森本草介「未来」、東北大震災でアトリエが壊れ、描き掛けの絵の中で唯一無事だったのがこれだという、希望を表わす「未来」というタイトルはそこから来ている)
ボッティチェッリの描いたヴィーナスは美しい。でも、ここで描かれているのは、ヴィーナスではなく普通の女性である。でも私には、その美しさは、ボッティチェッリのヴィーナスに少しも劣らないように感じられた。おそらくその理由は、対象への愛が深く表現されているからだと思う。