[演劇] エンデ『願いがかなうぐつぐつカクテル』

[演劇] エンデ『願いがかなうぐつぐつカクテル』 新国・小劇場 7月21日

(写真下は、ポスターと舞台、左が魔女ティラニア、右が魔術師イルヴィッツァー、舞台では二人とも可愛いキャラになっているが、それがいい)

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M.エンデ『魔法のカクテル』をエンデ自身が戯曲化したものを、小山ゆうな演出で上演。この作品は、小説よりも演劇の方がインパクトが感じられて、日本で上演できて本当に良かった。『魔法のカクテル』は、恩寵としての奇蹟が主題で、教会の鐘の音の中の「たった一つの音譜」が「地獄のカクテル」の呪いを無効化する。その恩寵を引寄せるのは、知恵ある人間ではなくて動物の想像力であり、私は、モーツァルト魔笛』でグロッケンシュピールが鳴って奇蹟が起きるのを思い出した。両方とも奇蹟は「鐘の音」によって生起し、グロッケンシュピールの所有者パパゲーノのキャラは、本作の猫とカラスのキャラと似ているし、魔女たちにも共感できるという点も、似ている。そして『魔法のカクテル』の魔女は資本主義の、魔術師は科学の、それぞれ神話的アレゴリーであり、世界の破滅を救うのはもはや恩寵の奇蹟しかないというのは、いよいよ「近代の終わり」を感じさせる。舞台は、猫が歌う「終わりよければすべてよし」で終幕するけれど、しかし全体の通奏低音は、明らかに終末論的である。(写真↓はカラスと猫、二人とも口が、コロナ対策のプラスチックマスクに)

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『願いがかなうぐつぐつカクテル』は、登場人物6人のキャラ立ちがとても良く、それぞれに個性的で明快で、誰もが共感できる愛おしさがある。思想性の高い作品だが、子供も大人も楽しめるという点では成功している。とはいえ、最後、魔術師と魔女が地獄からの執行吏に「差し押さえられる」シーンは、ゲーテファウスト』の逆バージョンの残酷さがあり(ゲーテでは神はメフィストとの契約を破ってまで、ファウストの魂を救済する)、「差し押さえ」こそ資本主義における「契約」の残酷さの象徴であり、地獄の本質であることまでは、子供には分らないかもしれない。しかし、魔女も魔術師も最初から悪人なのではなく、地獄の悪魔との契約によって「働かせられている」サラリーマンにすぎず、地獄からの執行吏マーデも、アイヒマンのような職務に忠実な官僚にすぎない。彼らは自分の任務や職務を忠実に果たしている/果たそうとしているという点で、悪人ではなく善人なのだが、しかし「悪」はまさにそこから生じてくるというのが、エンデのメッセージなのだ。終幕、奇蹟の力でいったん「よい」人間に戻った魔女と魔術師が、「差し押さえ」を恐れて、再び最後のカクテルを飲んで悪人に戻るシーンが、悲劇としての本作の頂点だろう。自由意志で悪に回帰する彼らに恩寵は及ばない。三人がともに被雇用者であり、システムの被害者であるというキャラが明確であること、そして恩寵をもたらす聖人シルヴェスターが、厳しさを感じさせないボーッとしたおじいちゃんであることなど、すべての人が愛おしい。それはつまり、物語の演劇化、この上演、そして演出が、十二分に成功しているということだ。

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本作は「奇蹟」が主題だが、私はスピノザを思い出した。スピノザは、「聖書に出てくる奇蹟なんて非科学的でナンセンス」としたデカルト派学者に対して、「宗教における狂信は悪いが、奇蹟は別に悪くない、なぜなら奇蹟はすべて<善いこと>をもたらすからだ」と考えた。恩寵としての奇蹟を引寄せるのは、もはや人間の知性ではなく、動物の想像力であるという点は、スピノザとは異なるが、「奇蹟」は<善いこと>なのだということは、子供にもよく伝わったと思う。

 

この上演の映像は見つからなかったのですが、ドイツでの舞台の映像(Wunschpunsch)がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=YPJOxHLzfZU