[オペラ] ベルク 《ヴォツェック》

[オペラ] ベルク《ヴォツェック》 METライブ 東劇 8月25日

(写真↓上は、第二幕、酒場のシーン、下は第一幕冒頭、大尉の髭を剃るシーンだが、ヴォツェックはカメラを操作しており、スクリーンにはヴォツェックの幻覚や妄想が映し出される)

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今年1月11日のMET上演の映像。演出のケントリッジは映像作家で、彼の演出した『魔笛』は、映像が説明的なのと細部の解釈に疑問があったので、あまり感心しなかったが、本上演は、CG映像が舞台装置とぐちゃぐちゃに混じり合う、印象深い効果を生み出している。以前、新国でクリーゲンブルグ演出版を二回見たが、その時は内容にばかり気を取られていたが、今回は、ベルクの音楽の凄さに圧倒された。第二幕の酒場のシーンでは鳥肌が立ったが、音楽がこんなにも深く感情を表現できるのだから、「オペラは19世紀で終わった」などとはとても言えない。アドルノは《ヴォツェック》を讃えて、こう言っている、「今日では、音楽がさまざまな性格に対応して具体的な形をとることができるかどうかということに音楽の生存権のすべてが掛かっているのだから、《ヴォツェック》は最大の今日的意義(アクチュアリティ)を持っている」(「<真の人間性>のオペラ」1955)。《ヴォツェック》はアドルノが「<真の人間性ヒューマニズム)>のオペラ」と呼ぶように、貧困にあえぎながら底辺に生き切る人々の苦悩に、深い共感を寄せる正真正銘の「ヒューマニズム」オペラである。ほとんどの場面でベルクの音楽は、ヴォツェックや内縁の妻マリー、そしてその周囲の人々の激しい苦悩を表現しているが、彼らを冷たく突き放すのではなく、音楽はつねに、彼らをやさしく包み込む美しい抒情性を伴っている。兵士ヴォツェックはつねに不安におびえ、おどおどしており、人間として自信をもって生きている瞬間が一つもない。実際に第一次大戦に徴兵されたアルバン・ベルクの経験が反映しているのだろうか。(写真下は、ヴォツェックとマリー、P.マッティは、ヴォツェックが不安におびえ、つねにおどおどしている様態を、これ以上は考えられないくらい見事に演じている。難しい役なのだろう、終演後のインタヴューで彼はヴォツェックという役は「何重にも張り巡らされたクモの巣のようだ」と答えていた)

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ヴォツェックとマリーの3歳の子供を、人間ではなく人形に演じさせ、しかも第一次大戦で使われたガスマスクをしているのは、戦争批判を意図した演出だろう。それにしても、第三幕冒頭、子供の横で、聖書の「姦淫してしまった女をイエスが許す」節を泣きながら読むシーンは、本当に胸塞がる。ヴォツェックは浮気したマリーをナイフで刺し殺し、沼に投げ捨てたナイフを拾いに沼に入って溺れ死ぬ。そして終幕、「マリーおばちゃん、死んでるよ」と、よその子供に言われても意味が分からず馬乗り遊びを続ける子供。《ヴォツェック》は、ヴォツェックとマリーと子供との家族愛が、ばらばらに千切れ、飛散し、消滅してしまう過程を、目をそむけることなく直視する。そして、その深い悲しみを共有することによって、愛の神聖さを讃えている。アドルノは、小論「《ヴォツェック》の性格づけのために」(1958)の最後をこう結んでいる。「人間がもっとも困窮にあえいでいる場で心から探し求めているもの、すなわち愛に対して、聞き手は尻込みしてはならない」と。(写真下は、怪しげな医者の人体実験モデルになり小銭を稼ぐヴォツェック、そして第3幕、マリーを刺した血がついていることを酒場で咎められるヴォツェック(中央)、彼の右斜め下がマルガレーテ)

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33秒の動画が、ケントリッジ演出のCGの活躍がよく分ります。

https://www.youtube.com/watch?v=KGruNSi8Bhc&feature=emb_err_woyt