[演劇] 杉原邦生・瀬戸山美咲『オレステスとピュラデス』

[演劇] 杉原邦生・瀬戸山美咲オレステスとピュラデス』 KAAT 11月30日

(写真↓は、オレステスとピュラデス、そして巡礼たち)

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ギリシア悲劇を現代に翻案した上演は多いが、本作は、舞台はあくまでギリシアのままで、内容を大きく発展させた二次創作といえる。コロスがひどく騒々しく、大音響の音楽にのって踊りまくるので、科白のやり取りや人物造形の深みがやや相対化されてしまったのは残念だが、全体としてすばらしい主題が設定された二次創作だと思う。全体の構造は、復讐の悪循環から和解と愛への回帰という、ギリシア悲劇全体の大円環を、アルゴスからタウリケへの旅という架空の直線的過程へ写像し、その過程でオレステスとピュラデスの熱い友情を描いている。原作では「オレステイア」におけるアトレウス家の和解が描かれているが、本作では、それ以上に、ギリシア人に敗北したトロイア人たちとの和解が描かれおり、アルゴスからトロイアを経てタウリケへと至る二人の旅は、この広い世界を、憎しみから和解と愛へ変えようという精神の雄大な旅なのだ。(舞台は奥行きが深く、人々は大きく動き、走り回る)

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二次創作のギリシア悲劇としての本作の最大のポイントは、トロイアの少女「ラテュロス」の造形にある(ひょっとして原作やホメロス等にモデルはあるのか?)。イリアス城の城壁から投げ落とされて殺された、ヘクトルとアンドロマケの幼児アステュアナクスの幼な馴染が少女ラテュロスで、山に避難していた彼女は戦後に焼野原になったイリアス城に戻ってくるが、ちょうどそこに旅をしてきたオレステスとピュラデスと出会う。彼女は、アステュアナクスや多数のトロイア人を殺したギリシア人に対して、復讐の感情を持っていないとオレステスに告げる。オレステスは復讐の女神たちから逃れるために、アポロンの神託に従ってタウリケへ旅しているのだが、オレステスが復讐の女神たちに付き纏われる真の理由は、彼自身が一貫して「復讐は正義」という思いに囚われているからであり、復讐の感情を持たない少女ラテュロスに対して、オレステスは甚大な衝撃を受ける。ラテュロス役の同じ女優が、前の場面では、二度も和解を頑なに拒否するトロイア人を役を演じるので、三回目にようやく訪れた和解の契機は、それだけ衝撃が大きい。ラテュロスに対して愛の感情が芽生えたオレステスは、タウリケへの旅は中止して、ここでラテュロスと結婚して暮らすと言い出す。父も故郷も捨ててオレステスについてきたピュラデスは「俺はどうなってしまうのか?」と怒り出して、二人の友情に亀裂が入り、ピュラデスはラテュロスを海に突き落として殺してしまう。ここが本作の最大のクライマックスだが、しかし不思議なことに、ラテュロスは死なずに神に救われ、一足先にタウリケにテレポートされたのだ。ちょうど「アウリスのイフィゲネイア」と同じことが起こったのだ。とすれば、オレステスとピュラデスがタウリケに着けば、そこでイフィゲネイアとラテュロスを救い出すことができ、和解と愛が実現するだろう。こうして、二人はタウリケへの旅を続けることになる。

本作が深みのある物語になっている理由の一つは、神々への懐疑である。母親殺しを命じたアポロンの神託は本当に正しいのか? 神々も結構いいかげんな存在で、人間と同様に欠点をたくさんもっているのではないか? エウリピデスオレステス』では、メネラオスは、「アポロンさまは、美と正義とを、もひとつよく存じていられない方だ」とアポロンを批判している(ちくま文庫、p372)。杉原邦生『グリークス』でも、アポロンは「ちんどん屋」、アテナは「本屋のおばさん」になっていたから、神々への批判的視点が強調されていた。ここは重要な論点で、そもそもギリシア悲劇の段階で、アテナやアポロンの「機械仕掛けの神」の登場によって、和解が唐突に強制的に実現することに対する違和感は、かすかに存在したはずだ。もし神々に頼らずに、人間自身の力だけで和解と愛を達成できたら、その方がよりよいのではないか? ゲーテによるリメイク版『タウリスのイフィゲネイア』ではアテナは登場せず、人間だけの力で和解と愛が達成される。本作もまた方向としては同じであり、少女ラテュロスによって和解と愛が達成される。彼女はオレステスを救済するだけでなく、すべてのギリシア人とトロイ人を救済する、愛のアレゴリーなのだろう。彼女は人間の無邪気な少女だが、その存在の本質は、アンティゴネやコーディリアとよく似ている。それだけに、ラテュロスがピュラデスに殺される最終場面の「トロイア」は、大音響の音楽コロスにすぐ回収せず、もっと丁寧に場面を造形してほしかった。それと同様に、最後、プロメテウスが登場し、彼が人間に与えた「火」は憎しみの象徴であり、「鎮めることはできるが消すことはできない」と戒めるシーンは、どうなのだろうか? メタレベルで大きな文脈を設定するので、全体が分かりやすくなった効果はあるが、不要ではないのか。というのも、神々抜きで、人間だけの力で、和解と愛が成就するというのが、ギリシア悲劇脱構築する二次創作の、目指すべき方向だと思うからだ。(写真は二人と一緒に旅する巡礼たち、彼らはコロスを兼ねる) 

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動画

https://twitter.com/kaatjp/status/1333009174687408129