[演劇] ソン・ギウン(チェホフ)『外地の三人姉妹』

[演劇] ソン・ギウン(チェホフ)『外地の三人姉妹』 横浜KAAT 12月16日

(写真は舞台、アンドレイと結婚するナターシャは一家の中で「浮いている」)

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チェホフ『三人姉妹』を韓国のソン・ギウンが翻案、演出は多田淳之介。1936~43年の日本の植民地、朝鮮の羅南が舞台。ウラジオストックに近く、日本の作った軍事都市。日本軍、軍属、その家族など日本人がたくさん居住。日本人の三人姉妹は、昨年亡くなった高位軍人の父の高級住宅に住む。若い将校が家に出入りするのは原作と同じ。原作の時空を移動し、登場人物の一部の出自を少し変えたが、内容はほぼ原作通り。意欲的な二次創作として評価できる。『三人姉妹』は、開幕から終幕までどのシーンも胸が痛むが、それは誰もが、もがくように生きているからだ。皆もがくように生きているのに、誰も幸福になることはできない。これがチェホフ劇4作に共通するテーマなのだが、『三人姉妹』はあらためてチェホフの(そして現代演劇の)最高傑作だと思う。なによりもその人物造形が深い。誰もが後ろ向きにしか生きられなくなっており、その理由は一人一人違うが、その違いがとても丁寧に描かれている。しかし、抗しがたい強い逆風の中にあって、何とか前を向いて生きようとするのが、三人姉妹や『かもめ』のニーナである。我々には、これだけの逆風の中を、一歩くらい前向きに歩いても、ほとんど意味がないようにも思われる。しかし、それでも彼女たちは、もがき苦しみながら、前向きに歩こうとする。そして、たぶんそう遠くまでは歩けないだろうという予感のもとに、我々は彼女たちを見送らざるをえないのが悲しい。

 本作は原作を、植民地支配と戦争というコンテクストに置いたために、一部の登場人物が背負っている過去と現在が複雑で分かりにくくなった。たとえば兄アンドレイと結婚するナターシャは、朝鮮人有力者の娘であり、彼女が一家の中で「浮いた存在」であるのは原作と同じだが、そこに日本人対朝鮮人、そして日本の植民地支配に協力する朝鮮人とそうでない朝鮮人という、複雑なコンテクストが生じる。またイリーナの婚約者で決闘で殺される男爵トゥーゼンバフは、朝鮮人と日本人のハーフで、支配者である日本の特権階級でありながら、朝鮮人労働者に好意的なヒューマニストという複雑なキャラクターになっている。決闘で彼を殺すロシア軍将校ソリョーヌイは、狂信的な日本主義者の軍人になっているので、また新しい要素が加わった。植民地支配も戦争も、人々が幸福に生きることを妨げる大きな要因だから、コンテクストに加えてもよいが、しかしただでさえ難解な『三人姉妹』を、さらに複雑にしてしまったことも否めない。たとえば、ナターシャが老女中アンフィーサをいじめるのは重要なシーンだが、朝鮮人が日本人をいじめていることになる。最後、原作と違って、立ち尽くす三人姉妹ではなく、トゥーゼンバフを含む4人の朝鮮人で幕を下ろすのは、三人姉妹は東京へ帰るという予感を表現しているのだろうか、よく分らなかった。(写真↓は、左からアンドレイ、イリーナ、ソリョーヌイ、ベルシーニン、オーリガ、マーシャ)

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人間らしく生きることが、こんなに困難になってしまった世界。しかし終幕、原作でオーリガは、二人の妹を抱きしめながら、言う。「ああ、可愛い妹たち、私たちの生活はまだおしまいじゃないわ、生きていきましょう! さあ、生きていかなくては」。そう、私たちがお金と時間を使って、わざわざ劇場までチェホフを見に行くのは、この言葉を聞きたいからだ。だが、本作は、この言葉がやや違っている。(写真は、左からオーリガ、マーシャ、イリーナ)

f:id:charis:20201217095158j:plain前を向いて歩きたいのだが、どちらが前なのかが分らない。(イリーナ)「ねえ、どっちが前なの、私には分からない」、(オーリガ)「私たちが一緒に向いている方向が、前じゃないかしら」

 本作のオーリガを演じたのは伊東沙保。たしか木ノ下歌舞伎の『心中天網島』の「おさん」を演じた人。オーリガは、女として/人間として、何と美しいのだろう! 『三人姉妹』は過去にたくさん見たが、オーリガは今回が最高。それから今回気が付いたことだが、チェホフ劇にはなぜ魅力的な男性が一人もいないのだろうか。アンドレイといい、クルイギンといい、本当にどうしようもなくダメな男ばかりだ。時代が人間をダメにしてしまい、それはまず男にあらわれるとチェホフは考えたのだろうか。近松と同じで、男がぜんぶダメなのがチェホフだ。女は、三人姉妹もニーナも、それぞれまったくキャラが違うが、それぞれが限りなく個性的で魅力的だ。それに対して、男たちのダメさは、ある程度類型化できるダメさでもある。こうしたジェンダーの視点からも、これからチェホフを見続けていきたい。

  チェホフ劇の登場人物たちの多くは、自分の悩みや不満を語るのは熱心だが、人がそれを語るのはちゃんと聞いていないし、共感も同情もしない。自分勝手な人たちなのだが、しかし我々自身も、程度はともかく、そうなのではないだろうか。自分が苦しい時には自分のことで精一杯で、他者にやさしくなれない。電信局で働いて疲れ果てたイリーナも、他者に冷たいことを言う。でも、オーリガは違う。彼女は、自分が辛い時でも他者に優しい。たまたま今回、オーリガと、前に見た『天網島』のおさんとが、ともに伊東沙保だったので、二人が私の中で繋がった。おさんも、夫に愛人ができたという極限の辛さの中で、愛人を死から救おうとする。私たちの多くは、自分が辛い時は、他者にやさしくなれない。なぜなのだ、どうしてなのだ。これも、チェホフ劇が我々に問いかけている先鋭な問いです。前向きに生きる、といっても、それが人間らしく生きることであるならば、その「生きる」は「他者との関係性を生きる」ことでなければならない。幸福とは、他者との関係性を生きることのうちに存在する。これがチェホフ劇の本当の主題だと思います。

  PS :ツイッターの感想に、「最後の演出、私は三人姉妹の物語をメタ化し地面に埋めてしまっているように思えた」というのがあった。その可否はともかく、私もやはり幕切れ直前のあの演出が気になる。立ち尽くす三人姉妹ではなく、汚れてしまった韓国国旗?の周囲を回る四人の朝鮮人で劇を終えたのは、何を意味しているのだろう。劇の細部に、日本と朝鮮の対立というコンテクストが張られているのは私にも理解できたし、それは正当なことだが、最後はやはり、呆然と立ち尽くしながらも、涙を必死にこらえて励まし合う三人姉妹で終わらなければならないと思うので、あの演出は余計だったと感じる。