[演劇] ニコラス・ライト 『ミセス・クライン』

[演劇] ニコラス・ライト『ミセス・クライン』 シアター風姿花伝 12月19日

(舞台↓は、左からポーラ、メラニー・クライン(那須佐代子)、メリッタ、3人とも実在の女性、その下の写真は、メラニー・クラインと娘のメリッタ、息子のハンス)

f:id:charis:20201220092129j:plain

f:id:charis:20201220092152j:plain

1934年のロンドン、ドイツから逃げてきた三人の精神分析家のユダヤ人女性が、たまたまメラニーの家で会い、メラニーの息子のハンスの死をめぐって激しく葛藤する。34歳のポーラはポーランド出身の優秀な精神分析家で、メラニーの信奉者。メラニーは彼女を自分の助手にしようとしている。娘のメリッタは、「ドクター・シュミットバーク[夫の姓]」と呼ばれているように博士号を持っているが、メラニーは博士号をもっていないので「ミセス・クライン」と呼ばれている。ハンスの死で動揺しているメラニー(母だから)のところにやってくるハンスの姉メリッタは、彼の死は自殺と考えている。もし自殺であれば、まめに手紙をやり取りしているメラニーとしては、それに気が付かなかっただけでも精神分析家として大失態になる。メリッタは、母は自分たち姉弟精神分析の観察材料として徹底的に利用しただけで、自分たちは母にぜんぜん愛されていなかったと思っているので、ハンスの死は、この母娘の愛/憎が一気に爆発するきっかけになる。実際は、ハンスは事故死だったから、それが劇の最後に分るという部分は、二人の葛藤を大きく前景化するための、劇作家のフィクションだろう。(写真下は、メラニーのいない隙に、ハンスの死を自殺と告げたメリッタの手紙を探し出そうとするポーラとメリッタ、この手紙をメラニーはまだ開封していないので、メリッタは彼女に読ませまいと、自分が出した手紙を探しているのだ)

f:id:charis:20201220092414j:plain

メラニーの部屋で偶然三人が会うのは、劇作家のフィクションであろうが、三人は精神分析家なので、人間としての普通の会話(非常に激しいそれだが)の中に、互いに相手の精神分析をする過程がごちゃまぜに入り込んでいるというのが、本作の醍醐味だろう。そこが一番面白かった。実在のメラニーは自分が何度も深刻な鬱状態を経験している人だが、ハンスの死によってまた鬱状態がぶり返そうとしている。だから、この場面では、メラニー自身がメンタル的にかなりおかしい。本人が非常にハイになっており、ものすごく高圧的で、機関銃のように一方的に喋りまくる。しばしば相手の発言をさえぎるだけでなく、精神分析な問いを投げたかと思うと、相手が何か言う前に、瞬時に自分で「正解」を言ってしまう。精神分析家が分析を行うときは、こういう語り方はありえないわけで、メラニー自身が機関銃のように喋りまくるのは、彼女自身がバリアーを作って自分を閉ざそうしており、それ自体が防御機制になっているのだ。娘メリッタの方も、ハンスの死をきっかけに、母への憎しみが一挙に爆発したので、母とうまく対話することがもはやできない。母が一方的にまくしたてるのをじーっと聞いていると思うと、突然立ち上がって、激しく叫んで母を罵倒する。メリッタも精神分析家だから、母に対して精神分析的な探りを入れようとするのだが、それがぜんぜんできなくなっているのだ。ポーラは、メラニーの心酔者ではあるが、今は一応、二人からメンタル的に距離を取れるので、二人を冷静に見守っている。しかし最後、ハンスは自殺ではなさそうだとメラニーにわからせようとするのに、メラニーがよく理解できない場面で、ポーラも立ち上がって「あんた馬鹿よ!」とメラニーを激しく罵倒する。要するに、精神分析家も、ここまで愛/憎の激しい自分の問題となると、精神分析的対話ができなくなってしまうのだ。この劇はそれを示したかったのだと思う。だから終幕、ハンスの死を受け入れ、メンタル的に和解できたメラニーが冷静な自分にもどり、ポーラをカウチに座らせて本来の精神分析を行うシーンは非常に感動的だ。ポーラは、もともと自分がメラニー精神分析を受けたいので、メラニーに近づいてきた人なのだ。メラニーも本来の冷静な分析家に戻り、ポーラと静かな対話をするなか、シューベルト弦楽四重奏が流れ、幕となる。劇中に、メラニーがコンサートに行ってきたという発言があるから、実在のメラニーシューベルトが好きだったのだろう。この舞台で、タクシーが迎えに来たり来客のベルが鳴ったときに、メラニーが言った「外の世界を待たせておく」という言葉は、メラニー・クラインが精神分析の本質として述べた言葉らしいが、非常に含蓄が深い。他者に対して自分を開かざるを得ない人間の「自我」は、外界の嵐によって傷つきやすい脆弱なものであるから、「外の世界をしばらく待たせて」、自我を守るのが精神分析の使命だ、ということだろうか。今回は娘とうまく対話できなかったけれど、要所要所で本質的なことを言うメラニーが優れた精神分析家であることは、劇のはしばしから読み取れる↓。(その下の写真は、1908年ごろ)

f:id:charis:20201220092542j:plain

f:id:charis:20201220092606j:plain