[演劇] エンダ・ウォルシュ 『アーリントン』 KAAT 1月30日
(写真↓はポスター、部屋に散乱している服は、アウシュビッツ収容所でガス室に送られた人々が最後に脱ぎ捨てた衣服の隠喩だろう、人類の文明が滅び、二人の男女は人類の最後に生き残った二人だと、私は想像した)
部屋に一人の人間が存在しているという具体的事実があるだけで、状況が非常に抽象化されているので、一体何が起きているのかは、観客がそれぞれ自分の想像力で物語を作らなければならない。その意味ではカフカ的な寓話の世界だ。しかも110分間の舞台の最後の5分間で状況が全部逆転し、絶望から希望へ、死から生へと転換するので、私はベケット『しあわせな日々』を思い出した。そして終幕は、チャペック『ロボット』によく似ていると感じた。最後に生き残った二人がロボットではなく人間である点が違うが、二人の新しいアダムとイヴ、そして二人の愛によって、滅亡が必然だった人類に、新しい歴史が始まる希望が垣間見える。人類はたった二人になってしまったけれど、二人に愛がある限り、希望がある(写真下↓は終幕)。
私が舞台から想像し創作した物語によれば、人類の文明は行きつくところまで行き、人々は大都市の高層ビルに生活しており、超管理社会になっている。一人一人が個室に住んでいるが、疎外が究極にまで達した一人一人の人生は、精神的な拷問を受けているような日々であり、ガス室の処刑を待つ待合室にいるようなもので、一人一人の囚人番号が壁に提示されると、人々はガス室に赴くが、それを待てずに、高層ビルの窓から飛び降りて自殺する人も多い。人生にはたくさんの選択肢があるかのように、みな思い込んでいるという点で、新自由主義も究極に達している。高層ビルの窓から「木の葉のように落ちていく」人々の姿は、新自由主義の最先端・マンハッタン貿易センタービルですでに現実のものとなった。『アーリントン』もまた、戦士たちの墓地の名前であり、現実の世界に存在する。21世紀の今日、「この世の終わり」はすでに始まっているのだ。物語の最初に、この部屋にいるのは一人の少女アイーラ。彼女の家族はすべてばらばらになり、一人暮らしの彼女は、閉じ込められた部屋で空想と妄想に生きている。等身大の人形を抱きしめて、架空の恋人を妄想する彼女は痛ましい。そして、その人形は、抱きしめているうちに、手がもげ、首がもげ、ばらばらになってしまう。しかし、彼女を監視している青年(写真↓左)が、彼女に愛を感じることによって奇蹟が生じる。ついに壁に囚人番号が表示され、彼女は服を脱ぎ下着姿で部屋を出て、別の高層ビルに移ってゆく。しかし青年は彼女をこっそり追跡し、彼女を救うために、都市から拉致して森へ連れてゆく(もちろん、その場面は一切なく、観客が想像するしかない)。
アイーラがいなくなったあと、別の少女がこの部屋に引っ越してくる↓。彼女に名前はない。人類のone of themだから、匿名なのだろう。しかし人間の疎外は、アイーラの時より一段と進んでおり、彼女はもはや自分の生きている拷問の生を言葉で表現することはない。ロック調の音楽に合わせて、狂ったように踊るだけ。そしてアイーラのように処刑を待つことなく、窓から飛び降りて自殺してしまう。
最後、監視人だった青年がこの部屋に住むことになり、彼もまた精神的拷問を受けるような生が続く。やはり人間の疎外は一段と進んでおり、彼は、処刑の時刻が迫るなかで、前の人々が脱ぎ捨てた服のどれかに何度も何度も着替えようとするが、どの服も彼に合わず、着替えが終らないうちにカウントダウンは終り、天井が爆発する。監視人である彼の死は、もはや彼個人の死ではなく「人類の終わり」かもしれない。だが、奇蹟がおこって、彼は助かる。そして、破壊された部屋に戻ってきたアイーラとの新しい生が始まる(写真下↓)。舞台に登場する生身の人物三人のうち、アイーラだけが名前を持っているのは、新たな人類の歴史はアダムではなく新しいイヴから始まるということだろう。以上は、私が舞台から想像し創作した物語だが、それは劇作家エンダ・ウォルシュの意図とは違うかもしれない。しかし、デリダが「引用」概念によって示したように、言語の「意味」を立ち上げるのは、語り手の意図のみではなく、語り手と聞き手の双方が作るコンテクストが「意味」を立ち上げる。だから演劇の観客は、舞台に参与観察している当事者として、自由に「意味」を立ち上げてよいのだ。