[演劇] ケストナー『雪の中の三人』

[演劇] ケストナー『雪の中の三人』 小山ゆうな演出 俳優座稽古場 3月16日

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俳優座公演、台本は演出の小山が新しく新訳・構成。ドイツ語の三つの台本を比較しつつ、原作に近いものにしたという。ケストナーは二年前に田中麻衣子演出『どうぶつ会議』を見たが、本作もよく似ている。ナチス政権成立の翌年1934年の作だから、根底は政治批判なのだが、『どうぶつ会議』と同じく、大人vs子どもという構図で問題を提示している。大人は、すでに利害関係の文脈にからめとられて、その文脈で形成された自分の役割を忠実に果たそうと毎日を生きている。子どもは、まだ利害関係の文脈にからめとれていないので、自分のアイデンティティを利害関係の文脈に決定されることなく、そこから自由に生きている。本作では、大富豪の社長が身分を隠し貧乏人の格好をして、ドイツ高地の最高級リゾートホテルに10日ほど泊まる。ちょうどそのホテルには、懸賞当選のプレゼントとして、大学出の博士だが就職先がないとても貧乏な青年も同時に宿泊する。ホテル側がその青年を隠れ富豪と間違えてしまったので、滑稽なドタバタ騒ぎが生じる。しかし大騒動の挙句、青年は相手を隠れ富豪とは知らないままに、二人の間にすばらしい友情が生れる。隠れ富豪にこっそり随伴する召使も、沈黙という命じられた役割を破って、貧乏な青年を助ける。つまり、この三人は社会における普通の大人のように、自分に与えられた役割を忠実に果たすのではなく、それを無視する子どもなのだ。三人が子どものようにはしゃぎながら、ホテルの庭で雪だるまを作るのが「雪の中の三人」というタイトルの意味。ただ、本作では雪だるまを作る必然性がよく分らないので(子どものメタファーが雪だるま? コクトー恐るべき子供たち』でも雪合戦があった)、ナチスに執筆を禁じられていたケストナーが最初に偽名で発表した『いつまでも子供』というタイトルの方が、よかったように思う。与えられた自分の役割を忠実に果たすしかない大人と、「役割を果たさない子どものように自由な大人」との対比が主題だから、ある意味ではディドロ『ラモーの甥』にも通じる話だ。何も考えず自分の役割を淡々と果たす大人が、まさかアイヒマンに繋がるとは思いもよらないとしても、ケストナーの作品は、批評性が高いのにお説教っぽくならず、芸術としての完成度が高い。

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小山ゆうなは舞台をスタイリッシュに作る人なので、この上演も、歌や踊りがたっぷり入って、衣服も素敵で、シンプルながら楽しく美しい舞台になっている。ごく一断面なのに、この時期のヨーロッパの上流階級の雰囲気が感じられ、私はマン『魔の山』やヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』を思い出した。ドイツ文学によく出てくる、スイスあたりの高級リゾートホテルに泊まる人たちには独特の雰囲気があるのだろう。あと、現代の日本人はほとんど感じなくなったが、紳士淑女のキリっとした「洋装」は、魅力的な何かがある。おそらく初期の「新劇」の魅力の一つはそこにあったのかもしれない。この上演は、それをチラっと感じさせた。また、森一を始めとして俳優座の中高年俳優たちの上手いこと! 眼前に表現される人間の美しさが、演劇と、映画やTVドラマとでは、まったく違うことがよく分る。演劇は美男美女を見せる必要はないのだよね。ギリシア悲劇も能も仮面だ。

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