[演劇] マキノノゾミ『昭和虞美人草』

[演劇] マキノノゾミ『昭和虞美人草』 文学座アトリエ 3月18日

(写真は舞台、甲野家の立派な書斎、しかし息子たちは遊び人タイプで、ヒッピーのような格好をし、まじめな就職もせず、手作りのロック雑誌を刊行している)

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マキノノゾミ漱石の『虞美人草』を翻案して、1973年の若者たちに置き換えた。演劇としては非常に面白く、上演は成功だが、マキノが、漱石の『虞美人草』の一番悪い所に共感して、それを前景化したことに驚かされた。私は、主人公のぶっ飛んだ女「藤尾」が大好きなので、漱石ミソジニーや、その古風で倫理的な恋愛観にまったく共感できない。宗近が、藤尾と小野の結婚を「間違っている」と倫理的に捉え、小野にお説教して藤尾と別れさせるシーンは、『虞美人草』のクライマックスなのだが、私はまったく共感できず、馬鹿野郎、余計なおせっかいをするな!と怒りを感じた。そもそも男女の愛というのは、本人たちにしか分らない要素で成り立っているのだから、他人がその善悪をいうことはできない。まして恋愛を倫理的な視点で捉えるのはもっての他で、この点で『虞美人草』における漱石の女性観あるいは恋愛観は、まったく話にならないほどくだらないと思う。藤尾の兄の甲野欽吾は、藤尾は「飛び上がりもの」「はね返りもの」だからダメだという。それは、そういう女を欽吾が嫌いだというだけで、そういう女こそ好きになる男はいくらでもいる。漱石は藤尾をこう描いている、「藤尾は男をもてあそぶ。一豪も男からもてあそばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成り立つものは原則をはずれた恋でなければならない。愛される事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが・・・行きあったとき、この変則の愛は成就する。・・・我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを選んだ。・・・小野さんは夢にだもわれ[=藤尾]をもてあそぶの意志なくして、わが[=藤尾の]おもちゃとなるを栄誉と思う」(旧版岩波文庫p190f.) 藤尾と小野の関係は典型的なサド/マゾ関係であり、サド/マゾ恋愛は、「原則をはずれた恋」どころか、恋愛に不可避的に含まれる要素だと私は思う。ただしそれぞれの恋愛によってその度合いは様々だから、それは好みの違いというべきである。「まちがった」恋などではない。漱石はそれが全然分っていない。藤尾と小野の恋において、二人はそれぞれが自分の役割に大いなる快楽と喜びを感じているはずである。素晴らしい恋であり、二人はよい夫婦になるだろう。それなのになぜ、漱石や宗近や欽吾は、二人を引き離そうとするのだろうか。恋というのは二人がよければそれでよいのであり、外野がとやかく言うべきではないのに。(写真↓は、上の右が藤尾、下は小野(右)に説教する宗近(中央))

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マキノ版『昭和虞美人草』で驚かされるのは、マキノ自身が漱石の恋愛観女性観に共感しているようにみえることである。しかし、60年代後半から現われたロック音楽を愛する若者たちはカウンターカルチャーの若者であり、手作りのロック雑誌の刊行に励む本作の主人公たちが、漱石のような古い女性観に立っているとは思えない。だから宗近が、「ロック音楽の魂は、まじめさにある」と言って、「あそび」の側に立つ藤尾と小野を非難するのは、まったくおかしい。私はロック音楽を良く知らないが、「ロック音楽の魂」はもっとアナーキーなもので「遊び」の快楽そのものなのではないか、それはむしろ藤尾の側にあるのではないだろうか? 藤尾は「我の[強い]女」で「虚栄の女」だからダメだと漱石は言う。でも、恋愛の本質はむしろ「我執」と「虚栄」にあるのではないだろうか(九鬼周造『いきの構造』はそう言っている)。女が「我」と「虚栄」の塊であって何が悪いのだろうか。そういう女こそ、「いい女」なのではないだろうか。私は漱石にもマキノにもまったく共感できない。(写真下は、左から小野、藤尾、小夜子)

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