[映画] 今泉力哉『街の上で』

[映画] 今泉力哉『街の上で』 シネマテーク高崎 5月5日

(写真は、主人公の荒川青[若葉竜也]が、打ち上げ飲み会で初めて知った女の子イハ[中田青渚]に誘われ、彼女のアパートで夜更けまで語り明かすシーン、まるで小津の映画のようだが、本作の静かなクライマックス、何という素晴らしい若者だろう! 二人の間にかすかな愛の感情が生れる、二人ともとても不器用で、コミュ障で、ボキャ貧で、さっそうとした恋愛にはならないけれど、こういう恋こそが本当に瑞々しく、美しい恋なのだ。何よりの証拠は、このシーンをみた我々自身が二人を好きにならずにはいられないから。下に貼った動画の冒頭がこのシーン)

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下北沢は私の生まれ育った街で、今でも実家がそのままあるので70歳の私もよく行く街だ。最初はそういう関心でこの映画に行ったのだが、いやいや、これは恋愛映画の大傑作。そして、原宿や青山ではなく、この映画の街には、やはり下北沢がよく似合う。トリュフォーゴダールの恋をする若者たちには、パリがよく似合った。その理由は、恋をする男の子たちの不器用さに対して、女の子たちはみなさっそうと恋をするからだ。だが本作は違う。女の子たちも途方もなく不器用で、恥ずかしいほどジタバタするから、さっそうと恋をするヒロインは一人もいない。でも彼女たちは、何と可愛らしく素敵なのだろう! 特にイハ、関西弁でしゃべる彼女はちょっとダサいところがあるし、彼女の恋バナからして、颯爽としたヒロインタイプではないことが分る。22歳の彼女は、今まで三人彼氏がいたと思いたいけど、本当は一人かな、その一人の関取になった幼馴染の男の子とも「そういうこと(=セックス?)はしてない」、と語る。でもイハは、数ある恋愛映画の中でも、傑出して魅力的な女の子だと思う。『ジュールとジム』のカトリーヌや、ゴダール映画のパトリシアやマリアンヌやナナにも決して見劣りしない。それだけに、せっかく恋が芽生えたのに、その晩の会話は、イハの「私たち、いい友達でいたいね、私、友達がいなくて寂しいから」で終り、二人が結ばれないのがとても残念。(写真↓は、初めて言葉を交わすイハと青)

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『街の上で』というタイトルは、シャガールの絵から採ったそうだが、とてもいい。下北沢という街は、たくさんのアパートに不器用な若者たちがたくさん住んでいる。そして彼らは皆それぞれに、とても不器用な恋をする。『街の上で』を見て思うに、カッコいい颯爽とした恋愛なんて、本当にあるのだろうか。恋愛の本質は、九鬼周造キルケゴールが明らかにしたように、出会いの偶然性が必然性に変り、自由と必然性が統一されるところにある。誰かを好きになるという感情は、自由意志で生れるものではなく、まるで恩寵のように自己の外部から与えられる。でも、恥ずかしさが先だち、とても自由に語ったり振る舞ったりすることはできない。そして、初めて出会った人と、良い関係が最初から生れるというのは非常に困難なことではないだろうか。その意味では、出逢ってからファーストキスまで数分というロミオとジュリエットは、やはり神話であって、現実の人間にそのような恋はありえないのではないか。「モテ」というのはどこかに錯覚があり、本当は我々は誰もが互いに「非モテ」なのだと思う。その意味では、『魔笛』の終幕、非モテ男子のパパゲーノに恋人パパゲーナが空から降ってくるあのシーンこそ、恋愛の真実なのだと思う。恋は、この世に生を受け、地べたを這いずり回って生きている我々にとって、人生のもっとも素晴らしい贈りものだが、その理由は、我々自身が、本来的にとても不器用な存在であり、特に愛においては、男女とも例外なく不器用であり、愛はとても困難なものだからだろう。『街の上で』が大傑作なのは、まさにそれを描いているからである。短い動画が↓

https://www.youtube.com/watch?v=b3uzwReO-3w

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