[演劇] シェイクスピア『終わりよければすべてよし』

[演劇] シェイクスピア『終わりよければすべてよし』 さいたま芸術劇場 5月13日

(写真は、若い伯爵バートラム[藤原竜也]と、彼に押しかけ結婚するヘレナ[石原さとみ]、石原は演技がやや大味だが、熱演だった)

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『終わりよければ』は、筋が不自然なので「問題劇」と呼ばれており、めったに上演されない。よき題名のゆえか、全シリーズ37作上演という企画のおかげで、最後に観ることができた。私は初見だが、ヒロインのヘレナにはすごく共感したので、シェイクスピアの「失敗作」とはいえないだろう。しかしバートラムはどーしょーもないクズ男で、彼と結婚できたことがそもそも「終りよし」とは思えないので、もちろん「すべてよし」のはずはない。結婚したとしてもすぐ破綻するだろうことが見えている。終幕後、私の席の近くにいた若いカップルが、「ヘレナはどうしてバートラムを好きになったのかしら?」と尋ねていて、彼氏は「うーん・・」と絶句していた。そう、それこそが謎で、本作の主題だよね。『心中天網島』では、小春が恋をするクズ男の治兵衛は、妻のおさんも彼を一途に好きなのだから、観客には分らないけれど、どこか魅力があるのだろうとは思わせる。でも、本作のバートラムには私が見るところ、それがない。もし彼がイケメンというだけでヘレナが好きになったとしたら、ヘレナは男を見る眼がないわけで、ヘレナにも共感できなくなる。こんなクズ男を好きになった貴女が悪いんだから、こんなとんでもないことになっても自業自得だよ、ということになる。でもそのへんを狙ってシェイクスピアが戯曲を書いたとも思えない。19世紀の批評家コールリッジはバートラムに同情的で、中世の貴族は貧乏な医者の娘とは結婚しないのが普通だから、彼がヘレナとの結婚を嫌がるのは当然で、別にクズ男でもない。強引に結婚しようとするヘレナこそ変な女だ、と言ったそうだ。でもシェイクスピアが、そのつもりで書いたとも思えない。ヘレナには、自分の感情をつねに反省的に捉えている内省的なところがあり、知的な女性だと思う。シェイクスピア・ヒロインは、ヴァイオラ、ロザリンド、ポーシャ、ジュリエットなど、みな知的なところが魅力なのだから、『終わりよければ』のヘレナは、いささかも遜色のないシェイクスピア・ヒロインだよね。石原は「一途に愛する女」はうまかったが、内省的で繊細なヘレナも演じ切れればなおよかった(写真下は、フランス国王[吉田鋼太郎、演出も]と、彼の病気を治すヘレナ) 

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本作で強く印象に残ったのは、バートラムの母であり、孤児ヘレナを引き取って育てたルシヨン伯爵夫人である。彼女は一貫してヘレナの味方であり、彼女とバートラムの結婚が成就するように、あらゆる努力を傾ける。「こんな素晴らしい女性に愛されるバートラムは幸せものなのに、それが分からないのはほんとに馬鹿!」と、クズ男の息子を叱りつつ、彼女自身が深くヘレナを愛している。ルシヨン夫人が枯れた老婆ではなく、若々しく美しいのがいい。夫人役の宮本裕子は23年前、『十二夜』のオリヴィアをここ埼芸で演じたが(私は昨日のように覚えている、ヴァイオラは富樫真)、今回、練習中に訳者の松岡和子が宮本裕子に「ルシヨン夫人って、オリヴィアが年齢を重ねた姿じゃないかしら」とアドバイスしたそうだ。なるほど、オリヴィアであれば、女が恋すると狂気すれすれになってしまうのをよく分かっており、ヘレナに理解があるわけだ。(写真は、ヘレナとルシヨン伯爵夫人、人体模型はヘレナが父の医学を継承していることを示している)

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『終わりよければ』はたしかに「問題劇」ではあるのだが、今回のように舞台として成功させることができる作品だ。平行する副筋の喜劇の面白さがあり、パローレスが懲らしめられるのは、マルヴォーリオが地下室でいじめられるのと似ているし、『尺には尺を』にもあった「ベッド・トリック」(別の女性と入れ替えて男に抱かせる)も、あり得ないとは思いつつ、昔は寝室は非常に暗かったわけで、『源氏物語』でも源氏は別の女性をそれと知らず抱いてしまうのだから、喜劇としては面白い。喜劇ネタをたっぷり仕込んであることが、この戯曲を舞台上演可能にしているのだと思う。そして、蜷川の遺産であるスペクタクルな舞台づくりは、今回も成功している。(写真下は「ベッド・トリック」他)

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