[演劇] 野田秀樹『フェイクスピア』 東京芸術劇場 6月15日
(写真は舞台、左からイタコの白石加代子、ハムレットの父[若いけれど]の高橋一生、そしてハムレット[老人だけれど]の橋爪功、この三人が主人公、80歳の白石と橋爪の活躍は凄い!)
芸術としての演劇が主題にしうる究極のテーマ「生・死・言葉」に真正面から取り組んだ作品。あらためて野田秀樹は物語を作る天才だと思う。この劇の本当の主人公は死者であり、1985年8月12日、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機のボイスレコーダーに記録された「声」である。墜落前の数十分、墜落を避けようと必死で格闘するパイロットたちの発話は、淡々としたものであり、「頭を上げろ」「頭を下げろ」(「頭」=機首)、(操縦桿の操作が)「重い、重い・・」「動きません」、「踏ん張ってみろよ」「気合をいれろよ」「・・・これはだめかもわからんね」「ドーンといこうや、がんばれ」など。だがこれは524人の命を預かるパイロットたちの、死に向き合う最後の数十分の言葉であり、およそ人間が語りうる究極の言葉、真実の言葉である。おそらく乗客の多くも、この時何かを心の中で語ったはずであり、手帳など記録が残っているものもある。本作では、この日航ジャンボ機のボイスレコーダから再生される死者たちの声を、恐山のイタコが死者を呼び出して語らせる声(=憑依したイタコが語る)として再生させる。これらの言葉が、劇の冒頭からイタコや呼び出された人物から繰り返し語られるのだが、それはコンテクストが異なるので、観客には滑稽な冗談を言っているようにしか感じられない。劇中で繰り返し言われる「言葉どろぼう」「言葉を盗む」と関係しているのだろう。しかしそれが劇の後半部で、あの日航機のボイスレコーダーの声の忠実な再現だと分かった時の衝撃は計り知れない。「ドーンといこうや、がんばれ」とは、死の一歩手前で人間が人間を励ます言葉、究極の言葉、真理の言葉なのである。物語が日航機のボイスレコーダーへと向かって進むプロセスとして、イタコが呼び出す死者たちの発話があるのだが、たいがいは依頼人の肉親の死者が呼び出される。まだ生きている父リアが呼び出す死んだ娘コーディリア、オセロが呼び出す死んだ妻デズデモーナ、マクベスが呼び出す死んだ妻、ハムレットが呼び出す父王など、話はシェイクスピアに転移し、そしてさらに劇作家シェイクスピア本人と、まだ生きている彼のバカ息子「フェイクスピア」も親子で登場し、さらに「星の王子さま」も登場して、虚構の言葉であるフィクションが産出されるメタシアター的構造が提示される。シェイクスピアとフェイクスピアの両人を野田秀樹が演じるのだから、これは楽しい役だ。(写真↓は、開幕冒頭、恐山で苔色をした「箱」を手にするハムレットの父、しかしボイスレコーダーだと分かるのはずっと後)
日航機墜落事件のボイスレコーダと恐山のイタコを結び付けたのは、野田の素晴らしい発想だ。また、「言葉」の究極の本質を、生者と死者が交わるところに求めたのも、たぶん正しい。しかし、すべてを包括するメタ構造として、劇作家シェイクスピアと馬鹿者フェイクスピアを登場させたために、全体がかえって分かりにくくなったのではないか。また、「星の王子さま」は、飛行機事故で亡くなったサン=テグジュペリという創作者が作ったフィクションの人物として、さらに日航機墜落にも繋がるのか。そのメタ構造もやや複雑だ。劇中で何度も出てくる言葉「永遠+36年」(36年=2021年-1985年)が、戯曲では「永遠+66年」になっているのはなぜだろう。上演時に変更されたのだが、最初の野田の頭の中では、時間の構造がちょっと違ったのか。66歳の野田自身の数字だろうか?(写真↓、中央が野田)