[演劇] 岡田利規『未練の幽霊と怪物(『挫波』『敦賀』)』

[演劇] 岡田利規『未練の幽霊と怪物(『挫波』『敦賀』)』 KAAT 6月23日

(写真は舞台、現代演劇なのだが、完全に能の形式で行われる)

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本作は、今までほとんどない新しい試みを岡田が行ったという点で、非常にユニークなものだ。能を現代演劇化したり、現代演劇の中に能の要素をさまざまに取り込んだものは数多くあるが、現代演劇をまるごと能という形式に押し込めるという荒業がこの作品だ。しかも、シテは多くの能がそうであるような、愛を裏切られた女ではなく、廃炉になった高速増殖炉もんじゅ(正確には、核燃料サイクル政策そのもの)、そして、東京オリンピック競技場がボツになったイランの女性建築家ザハ・ハディドがシテなのだ。たしかに広義にとれば、どちらも「愛を裏切られた」存在が亡霊となって現出し、それが成仏できるように鎮魂するという点は、能と同じだが、むしろシテの実体は、高速増殖炉や競技場に夢を託しながらそれを自ら裏切り否定するプロセスそれ自体であるから、政治が擬人化されており、高度に政治的な批評性をもった主題である。このように政治そのものをシテに表現させるというのは、斬新な試みだ。(写真下は↓、「敦賀」のワキである観光客(栗原類)と、前シテである「波打ち際の女」(石橋静河)、彼女は高速増殖炉を「あの子」と呼び、後シテでは「核燃料サイクル政策の亡霊」(戯曲にそうある)となって、コンテンポラリーダンスを踊る)

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非常に意欲的で斬新な試みだが、それが十分に成功したかどうかは、私にはよく分からない。チェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』『スーパープレミアム・・・』などには、深い静かな感動があったが、今回はあまり感動が感じられなかった。おそらくその理由は、シテもワキもアイも謡も、あまりにも言葉が過剰で、説明的に語りすぎるので、そのぶん感情の湧出が弱くなってしまうからではないだろうか。例えば、「あの子(=もんじゅ)くらい報われない、かわいそうな子はいない。はじめは、期待をかけられながら」「見ていた夢は 無限にめぐる サイクル 潰えるこのない力の流れ」(ともに、「波打ち際の女」)、そして謡は「核燃料サイクル 汝はそも 生まれいずることなく それなのに ゾンビとなった 誰にも退治されず 延命装置を外されもせず ずっと ずっと 成仏できない」と謡う。これは主題そのものだが、謡が一気に言葉で語ってしまってよいのだろうか。たしかにギリシア悲劇のコロスも、大状況を解説的に語るが、シテの実体が「核燃料サイクル政策」だとすると、どうしても解説がたくさんないと分らない。そのために、シテもワキもアイも謡も語りが過剰で、感情の表現がそのぶん弱くなったのではないか。(写真下は↓、「挫波」におけるワキ「観光客」(太田信吾)とアイ「近所の人」(片桐はいり))

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もう一点、これまでのチェルフィッチュの大きな特徴は、小刻みにだらだらと揺れる身体表現にあった。通常の演劇では、身体の動きは当事者の感情や意向と正確に対応するが、岡田劇では、そこに亀裂を入れて、人間の身体の振る舞いは、その人の感情や意向とはつねにズレてしまうことが強調されてきた。そこに岡田劇の面白さがあるのだが、能という形式にすべてを押し込めてしまったときに、そうした身体表現と感情や意向のズレはどうなるのだろうか。プログラムノートに石橋静河が、「身体の動きが感情に対応していなくてよい、と岡田に言われたので安心して踊りを作ることができた」と書いているが、後シテとしての彼女の踊りは、苦悩を表現していることは分かったが、細部はよく分からなかった。(写真下は、「敦賀」のアイの片桐はいり、彼女の間狂言は、身体にわざとらしい動きをさせているという点で、このギャップを表現したのだろうか)

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